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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  九、 高野山(1)雑多な聖が集まる聖地 

 真言密教の総本山、高野山は標高800メートル。転軸山、楊柳山など伽藍を囲む八峰は、巨大な八葉のハスの花弁に見立てられ、「胎蔵界曼陀羅(まんだら)」に包まれているのだという。
 空海が弘仁7年(816)、嵯峨天皇に下賜を願い出て、3年後に伽藍造営が始まったとされ、春の芽吹きを待つ樹海の中で、今も約1000人の僧が修行に励んでいる。
 四天王寺を出発した一遍一行は、熊野本宮大社へ直行はせず、高野山へ“寄り道”をしている。なぜだろう。
 「高野山は、ひたすら修行に打ち込む学僧ばかりがいたわけではないんです。全国から雑多な聖(ひじり)が集まる聖地でもあった」と、高野山大助教授、原田正俊さん(44)はいう。

 
◆空海と浄土誕生の縁結ぶ
 聖(ひじり)。本山や大寺院から離れて別所を設け、隠遁した高徳の僧のことだった。が、平安末期、阿弥陀信仰の流行とともに、私的に得度した私度僧の代名詞のようになった。回国、勧進をし、官僧はしない葬式を手がけ、死者のために念仏を唱えた。善光寺や四天王寺などにもたくさんの聖がいたという。
 「源平の合戦で全焼した東大寺・大仏殿再興の勧進をした重源(ちょうげん)は、高野聖を連れて全国を回ったし、歌人の西行も高野山の伽藍の勧進に回った。都と密接に結びついた教養人も多く、一遍はそこで、自分の活動の確信をつかみたかったか、刺激を求めたか。あるいは自分の師とする人を捜しに行ったのかもしれない」と、原田さん。

 (弘法大師は)六字名号の印板をとどめて五濁常没の本尊としたまへり。これによりて彼三地薩の垂迹の地をとふらひ、九品浄土同生の縁を結ばむために、はるかに分け入りたまひけるにこそ(一遍聖絵)

 〈弘法大師は、六字名号(南無阿弥陀仏)の印板をこの世に残し、汚れた末世に迷い苦しむ衆生の本尊とされた。このため、一遍は天竺、唐、日本と三地に垂迹された菩薩である大師の跡を訪ね、浄土に生まれる縁を結ぼうと分け入り、参られた〉
 (「一遍辞典」=東京堂出版より)。

 空海は香川出身。一遍と同じ四国の人だ。一遍が遊行へ出る直前、半年間篭った「岩屋寺」は、空海も修行をした修験の山だった。一遍の空海への思い入れは相当深かったらしい。
 念仏札を配る遊行の旅へ踏み出してはみたものの、まだまだ不安だったに違いない。奥の院まで足を運んで弘法大師を伏し拝み、「お大師さん、私が進む道はこれでよろしいのか。お守りくだされ」とでも語りかけたのかもしれない。
 夕日を拝む四天王寺が海上他界信仰の聖地なら、高野山は山上他界の霊場でもある。「高野聖は回国しながら、高野山への納骨と参詣を誘い、委託された遺骨を笈(おい)に背負って運んだ」と、愛媛・松山市内の元一遍会会長、故越智通敏さんは「一遍 生きざまと思想」(青葉図書)の中で書いている。
 列島を巡る聖たちは、参詣勧誘の方便として回国先で、様々な説話や因縁話も伝えて歩いた。一遍はそんな聖たちの生の姿もじっくり見届けたようだ。    文  冨野 治彦

 写真左上/空海をまつる大師御廟へ続く高野山奥の院参道。一遍もこの道を歩いたのだろうか
 写真右下/高野山の中心伽藍、大塔。真言密教の根本道場だ  写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/13)