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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  八、 四天王寺(2) 日本の仏教史詰め込む 

 四天王寺は、善光寺に似ている。大地からわきあがるような庶民の信仰に支えられた寺だ。
 587年、蘇我、物部両氏が仏教受容をめぐって戦った時、聖徳太子は蘇我方につき、ヌルデの木を刻んだ四天王像を頭髪に結んで戦い、勝利の御礼に建てた寺だった。結果、聖徳太子は日本仏法の祖となった。
 両氏争乱のさなか、物部氏が難波の海に捨てた仏像が、善光寺の本尊、一光三尊像なのだ。境内には、仏像のほか、今も神仏習合時代のなごりをとどめる熊野権現礼拝石もあれば、伊勢神宮遥拝石もある。
 「要するに千四百年の日本仏教史がすべて入った寺なんです」と、諸堂係長の兼子鐵秀さん(52)はいう。

 
◆旅芸人のごとく?女性連れで
 自分の身命をかけて衆生救済に乗り出した一遍が、最初に選んだお寺。しかも、一遍はここの阿弥陀如来の前で、自ら戒律を守ることを誓う自誓受戒をしている。一遍の四天王寺への思い入れの深さだろう。
 極楽門(西大門)から石の鳥居までの参道約100メートルの両側には、戦前まで「引声(いんせい)堂」と「短声(たんせい)堂」という2棟の念仏道場があった。かつては法然も親鸞も、良忍(1072ー1132)も修行をした道場だ。
 良忍は、大阪・平野区の融通念仏宗、大念仏寺の開祖。天性の美声に恵まれ、念仏に節をつけてうたい、信者がそれに合わせて踊ったといわれ、一遍が後にやって一世を風びした「踊り念仏」の元祖でもあった。
 「今も春秋のお彼岸には、大念仏寺の坊さんがうちの阿弥陀堂で、“踊躍念仏歓喜会”という法要を行っています。一遍も影響を受けたかも」と、兼子さん。
 境内には、貧しく、身寄りのない者のために「悲田院」、病人のために「施薬院」「療病院」、立派な人物を育てるために、人の心を耕すという意味の「敬田院」の計四箇院もあった。太子が日本の福祉事業の祖といわれるゆえんだが、境内がそんな社会の底辺で救いを求める人たちでにぎわっていたのも事実だろう。
 ところで、一遍の故郷旅立ちの様子を描いたのがこの連載の初回に紹介した「一遍聖絵」だ。
 一遍を先頭に、超一、超二という二人の女性、念仏房の4人が描かれている。超二はまだあどけない子供。妻、超一が強く希望し、娘の超二も同伴させることになり、念仏房が世話役として同行した、というのが一般的だ。
 「正妻か愛人かわかりませんけど、親族から追いたてられるなど、超一は河野家には置いておけない事情があったと思うんです」というのは、時宗「宗学林」学頭、長島尚道さん(62)だ。
 これに対して、「白拍子のような旅芸人親子だった」というのは「時衆と中世文学」などの著書がある鳥取大名誉教授、金井清光さん(80)。「念仏札を配るには人の足を止めねばならない。そこで超一が和讃を歌い、超二が踊った。人が集まり、投げ銭が飛び、旅の資金稼ぎにもなる。一遍はそこまで考えていたのではないか」という。
 やむにやまれぬお家の事情か、興行的な戦略か。興味は尽きないが、四人連れのお札配りは、好調な滑り出しだったようだ。
 「聖絵」には、極楽門の前で、札をもらうために、一遍に群がる男女が描かれている。  文  冨野治彦

 写真左上/四天王寺・六時堂近くの紅梅。今を盛りに咲き誇っている
 写真右下/四天王寺・講堂内に掛かる一遍の軸。栄西、親鸞ら各宗祖とともに並び、8月23日の一遍の命日には献灯会が行われる    写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/12)