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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  七、 四天王寺(1) 衆生救済 決心し旅立つ 

 岩屋寺での半年間の修行を終えた一遍は、ついに遊行の旅に出た。文永11(1274)年2月8日、36歳。
 飢えと貧困。戦乱の予感…。内外の閉塞(へいそく)状況の中で、いかに念仏の教えを人々に伝えるか。

 「(修行)結願の後は、すみやかに万事を放下して、身命を法界につくし、衆生を利益せんと思ひたち給ふ」(聖絵)

 世俗の生活を離れ、すべてを捨て、わが身と命を仏法のために捧げ、衆生を救おうと決心したのだという。別に請われたわけではない。やむにやまれぬ気持ちだった。
 最初に向かったのは大阪の四天王寺。推古元年(593)、聖徳太子が建てた日本仏法最初の官寺だった。

 
◆清貧な空也の生き様に共感
 念仏札を配り始めたのは、一遍が最初ではない。平安時代、市(いち)の聖(ひじり)といわれ、京都・六波羅蜜寺の開祖となった空也(903−972)だった。
 東に平将門の乱、西に藤原純友の乱。やっぱり騒然とした時代だった。空也は、川のない川に橋をかけ、道を開き、井戸を掘る。病人や貧者に施しをし、捨てられた死体は一カ所に集めて火葬にし、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて回向をするなど、人々に念仏を勧めて山野を歩いた。
 「京都・鞍馬山中の閑居時代には、シカやサルの首に念仏札をかけて放していた。ある日、猟師が射殺したシカの首に念仏札があったと聞き、深く悲しんで、シカを引き取り、皮は衣にして身につけ、角は杖の頭にして大切に扱ったそうです」と、時宗宗務所教学部長、新堀俊尚さん(60)はいう。
 一遍自身、空也を「我先達なり」といって尊敬していた。「一遍聖絵」巻七には、その空也をたたえて

 心、諸縁を離れて身に一塵をも貯えず、一生ついに絹綿のたぐい肌にふれず、金銀の具手にとることなく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠を全し給へり

 と書いている。
 武門の出の一遍が、世の無常を感じ、念仏札を配る遊行に踏み切ったのは、そんな空也の清貧の生き様への共感もあったようだ。文永11年は、最初の蒙古襲来の年だ。10月20日には900艘の戦艦を連ねた元・高麗連合軍2万8000人が博多湾へ。幕府軍はなすすべもなく、博多・箱崎を捨て約20キロはなれた太宰府の水城まで撤退している。
 さらに数年来、干魃(かんばつ)による飢饉(ききん)や地震が頻発し、平安末期以来の末法思想もあって、騒然とした時期だった。
 列島激震前夜の旅立ち。一遍にとっては絶妙のタイミングだった、ともいえる。

 極楽浄土の東門は 難波の海にぞ対(むか)えたる 転法輪所の西門に 念仏する人参れとて(梁塵秘抄より)

 お彼岸が近い。西大門(極楽門)の西約100メートルの大きな石鳥居のかなたに夕日が沈む。一遍の時代は、その先から難波の大海原が広がり、神々しい夕日の照り返しがあって、西方極楽浄土を拝む人たちがひきもきらなかったという。   文  冨野治彦

 写真左上/五重塔、金堂、講堂など中心伽藍が南北一直線に並ぶ四天王寺。日本仏法最初の官寺だ
 写真右下/毎朝、金堂で行われている「舎利出し」の法儀。平安時代から伝わる法要で、参拝者は頭に舎利をあててもらい、仏縁を結ぶ         写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/11)