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   一遍  旅に生きる  苦闘編
 六、 窪寺 念仏三昧の3年間 

                   善光寺から帰った一遍が35歳までの3年間、念仏三昧(ざんまい)に明け暮れた松山市窪野町の窪寺跡。そこを訪ねた日、南国なのに雪が降りしきり、みるみるうちに一面、銀世界となった。
 「一遍さんのころもこうだったはずだよ。十年前まではしょっちゅう雪が降った」と、近くに住む一遍会理事、中川重美さん(69)は言う。
 一遍会が建てた「窪寺閑室跡」の石碑は、うっそうとした杉林の中にあった。四国の背骨、四国山脈のふもと。海抜約400メートル。南東約35キロには石鎚修験道の本山、石鎚山がそびえている。
 風に乗って、杉や竹藪がザワザワと揺れた。近くの谷には龍神や蔵王権現をまつる岩場、清水がこんこんとわき出る小川も流れている。

 
◆勤行3年「十一不二の頌(じゅ)」に到達
 念仏。人間の苦を救ってくれる仏を心の中で念じることが元の意味だ。やがて、仏の全身や特徴を観察し、思念する観念の念仏へ、さらに仏の名を呼ぶことで仏を実感し、感得する称名念仏にもなっていった。
 二河白道を説いた中国の浄土教の祖、善導が重視したのが、この称名念仏。法然はそれをさらに深め、専修念仏だけを「正定(しょうじょう)の業(ごう)」としたのだった。
 窪寺は修験者が住む草堂だったようだ。寺から約200メートル離れた地に、「青苔緑蘿の幽地をうち払ひ、松門柴戸の閑室を構へ、東壁にこの二河の本尊をかけ、交衆をとどめてひとり経行し、万事を投げ捨てて、もはら称名(しようみよう)す」(一遍聖絵)
 二河の本尊は、善光寺で書写した二河白道の絵図。東壁は善光寺の方角にあたる。一遍は、手伝いの聖戒一人をつけて外部との接触を断ち、念仏修行に打ち込んだ。
 聖戒は異母弟だ。一遍が再出家し、太宰府を再訪したとき出家して同行、一遍の師、聖達が法名をつけたという。
 ちなみに国宝「一遍聖絵」は、一遍没後十回忌を期して描かれ、全12巻の詞章は聖戒が起草している。
 勤行3年。一遍が到達したのが有名な「十一不二の頌(じゅ)」だった。

 十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国
 十一不二証無生 国界平等坐大会
 (阿弥陀仏は、仏となる前の法蔵菩薩の時代に、すべての衆生が救われなければ私も成仏しないと誓いをたて、その誓いがかなって成仏した。
 だから、衆生はひとたび阿弥陀仏の名を唱えれば救われて極楽浄土へ往生できる。十劫の昔、法蔵菩薩が仏になったことと、現在の衆生が一回の念仏で極楽往生するのは同時である。
 阿弥陀仏の極楽浄土と衆生の娑婆世界は一つであり、どちらの世界にいても阿弥陀仏の法会に坐していることになる)

 衆生は生まれながらに阿弥陀仏に救われている。一遍の後半生を貫く人生観の骨子といっていい。一遍はこの後、さらに南東約25キロ山中へわけ入った石鎚修験の聖地、岩屋寺で半年間、修行をする。空海が修行をした古跡でもあり、奇巌高峰、四十九谷。山頂の白山権現社へは、岩の割れ目をくぐり、鉄鎖にすがり、はしごをよじのぼってやっとたどりつける道場だった。心身の練磨は極限に達した。    文  冨野治彦

 写真左上/一遍が修行をした窪寺跡。近くに閑室を建て念仏三昧に明け暮れた=松山市窪野町
 写真右下/一遍聖絵」に描かれた岩屋寺参籠の場面。今も石鎚山修験の聖地になっている                  写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/10)