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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  五、 善光寺(2) 日本人の“大きな仏壇” 

 伊勢神宮が日本民族の気持ちのふるさととすれば、善光寺は日本人みんなの、大きな仏壇のようなものかもしれない、といったのは作家、田辺聖子さんだ。
 亡き霊(たま)の目にも見ゆらんみな人の 御法の声にそえて嘆かば(中略)
 念仏を唱えるうち、次第に宅子さんはお篭りの法悦境に入ってゆく。逝った幼な子の、愛らしかった笑顔や、亡き両親の面影がまなかいに揺曳する。…長い旅路、はるばる来た甲斐があった、如来さまとの結縁が叶ったと心が軽かった。
 江戸時代の福岡の商家の内儀、小田宅子の『東路日記』を素材にした小説『姥ざかり 花の旅笠』(集英社)の中で、田辺さんは書いている。

 
◆すべて阿弥陀様にまかせよう
 一遍も善光寺の本堂に何日も参篭し、「いま宿縁あさからざるにより、たまたま(阿弥陀如来に)会ひたてまつることを得たり」と、一遍聖絵にある。
 日本民族の“仏壇”、善光寺は、僧俗男女誰をも受け入れ、宗派を問わない。本尊は、阿弥陀如来と左右に勢至、観音両菩薩の三尊仏だ。インド、百済を経て渡来した日本最古の、いのちが通う生身如来といわれる。
 蘇我氏と争った物部氏が大阪・難波の堀江に捨てたのを通りがかった本田善光が背負い、ここまできて寺を建てたのが始まり。日本の仏教の祖、聖徳太子がこの如来に手紙を書き、なんと如来から返事(3通)がきたといわれ、今も奈良・法隆寺にその手紙が保管されているという。
 「善光寺縁起の六分の一は聖徳太子の絵なんです。善光寺は聖徳太子抜きには語れない」というのは、塔頭・淵之坊住職、若麻積(わかおみ)侑考さん(66)だ。
 「十七条の憲法の第一条“和をもって貴しとなし、さからう無きを宗とせよ”は、日本は神ながらの国ではあるが、すぐれた文化をもった仏教も認め、神仏仲良くせよ、という意味なんです。一遍も当然、太子信仰があったと思いますよ。のちに“捨聖”といわれますが、あのすべてを捨て、南無阿弥陀仏を唱えるだけでいい、という悟りも善光寺で開いたのではないか」
 一遍は「阿弥陀如来に会いたてまつった」後、境内の「善導堂」に掛けてあったといわれる絵図「二河白道(にがびゃくどう)」を感得し、これを写して故郷の松山へ持ち帰り、3年間の念仏修行に入るのだ。
 二河白道は、念仏信仰の何たるかを具体的に表現した比喩だ。
 人間のむさぼる心を例えた水の河と、怒り憎しむ心の火の河。その真ん中をか細い一本の白い道が貫いている。彼岸に阿弥陀仏、此岸に釈迦。二河にひるみ、立ちすくむ人間に「迷わずこの道を進め」と釈迦が励まし、「こっちへおいで」と阿弥陀仏が招いている…。
 中国浄土教の祖、善導が「観無量寿経疏(しょ)」の中で説いたといわれている。
 「この絵図を見て、一遍は、なにもかもすべて阿弥陀が救ってくれるのだ、という絶対的な自信を持ったと思うんです。すべて阿弥陀様に任せればいい。なにもかも捨てろ、と。捨てることが喜びに変わっていったのではないか」と、若麻積さんは言うのだ。   文  冨野治彦
 写真左上/善光寺の仲見世通り。4月から、7年に1度の秘仏「前立本尊」のご開帳があり、いちだんとにぎわいそうだ
 写真右下/善光寺境内にそびえるように立つ聖徳太子の碑。手を合わせていく人が多いという  写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/07)