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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  四、 善光寺(1)妻帯、愛人。刃傷沙汰も 

 福岡・太宰府での一遍の浄土教修学は12年に及んだ。が、突然、人生の転機が訪れる。父、河野通広の死だった。
 25歳で一遍は故郷伊予へ帰り、8年間、沙弥(しやみ)(半僧半俗)として生活した。この間、妻帯し、一女に恵まれ、愛人もいたらしい。が、とんでもない事件が起きた。

 (一遍は)法師になりて学問などありけるころ、親類の中に遺恨をさしはさむ事ありて殺害せむとしけるに、疵(きず)をかうぶりながら仇の太刀をうばひとりて、命は助かりにけり (一遍上人絵詞伝)

 額に疵を負ったのだという。すさまじい刃傷沙汰ではないか。

 
◆再出家を決意し、善光寺へ
 刃傷沙汰の原因は何だったのか。親族間の所領争い、愛人問題のもつれなど諸説がある。
 そんな中で、「親類にとって一遍は頼りなく見えたんだと思いますよ」というのは「宗学林」学頭、長島尚道さん(62)だ。
 所領を没収され、没落していた河野一族にとって、迫り来る蒙古襲来はお家再興のチャンスだった。先陣を切って手柄を立てれば往年の栄光が戻ってくるはずだった。
 「ところが、一遍は坊さんの修行しかしていないんです。還俗したからといって急に船上で戦いができますか? 親せきに“もっとしっかりしてくれ”といわれ、刃傷沙汰になったと思うんです。が、一遍は殺生はもうこりごりだった」
 一遍は33歳で再出家を決意する。
 そういえば、江戸時代の禅僧、良寛がそうだった。越後・出雲崎の庄屋の長男。跡継ぎとして名主見習いまでした後、18歳で突然、出家している。出家理由が諸説ある中で作家、水上勉氏が注目したのは、町はずれの処刑場だった。
 「こんな寂しい所で首を斬られる罪人のこし方が思われ、泣き叫ぶ姿も彷彿する。立会人の良寛も血しぶきのあがる断首のむごたらしさをみれば、おそろしくなって名主などやめたくなる気分もわかってくる」と、『良寛を歩く』(中央公論社)の中で書いている。
 一遍も戦乱のむごたらしさは十分知っていたに違いない。福岡・太宰府へ行き、再出家の決意を師の聖達に伝えた後、文永八(1271)年秋、信濃の善光寺へ向かっている。
 3年前、北条時宗が18歳で執権に。外交を求める蒙古の国書をめぐって国論が割れ、日蓮が佐渡へ流されるなど、世間が騒然とし始めた年でもあった。
 一遍を追いかけて善光寺を訪ねた。4月6日から、7年に一度の秘仏「前立(まえだち)本尊(一光三尊の阿弥陀如来)」の御開帳が行われるとあって、あちこちに幟が立っていた。
 身はここに 心は信濃の善光寺 導き給え 弥陀の浄土へ
 哀調を帯びた御詠歌が胸に甦る。善光寺と聞いただけで心がときめくのはなぜだろう。
 「ここの念仏はいわゆる浄土教学で囲み込めるような念仏ではまったくないような気がする。もっと大地から湧き出るような、そんな念仏じゃないかと思うんです」と、塔頭・寿量院住職、小林健英さん(55)。日本人のDNAに組み込まれたような土着信仰の原点があるというのだ。一遍も大地の念仏を求めたか。   文  冨野治彦
 写真左上/善光寺で毎朝行われている「お数珠頂戴」。参道に並び、午前7時ごろから本堂で行われる法要の行き帰りに数珠で頭をなでてもらう
 写真右下/善光寺の夕景。訪ねた時、屋根にはまだ残雪があった  写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/06)