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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  三、 大宰府 父の修行仲間を訪ねて 

 一遍にとって母親の死が、本格的な仏道修行の始まりとなった。父親の河野通広が出家をすすめたのだという。
 世は乱世。通広自身、出家していて承久の乱の処罰を免れた経験を生かしたためとも、通広が何人かいた妻に気を使ったため、ともいわれる。
 「一遍聖絵」によると、13歳の春(1251年)、善入という僧と付き人の3人で福岡・太宰府へ旅立った。太宰府には、通広が京都での出家時代、一緒に修行をした仲間、聖達(しょうたつ)がいた。
 聖達は浄土宗の巨魁、法然の孫弟子だ。師匠は証空(しょうくう)。法然の4番目の弟子といわれ、後に浄土宗西山派の祖となる高僧だった。

 
◆師匠は法然の有力な弟子だった
 「法然の思想が弾圧を受け、弟子たちが地方へ散ったんですね。太宰府は京都から九州へ、仏教布教の拠点でもあったんです」と、古都大宰府保存協会の学芸員、大隅和子さん(52)はいう。同会の雑誌「都府楼」は今、太宰府での時宗の特集に取り組んでいる。
 既成仏教の方法論をすべて否定し、念仏一筋の専修念仏を唱えた法然は当時、「仏法の怨敵」だった。晩年は土佐へ流罪、没後も思想の弾圧を受け続けた。
 その有力な弟子が証空だった。当然処罰されるところだが、証空は朝廷の実力者、土御門通親の猶子でもあった。関白藤原忠通の子で、天台座主、慈円が“貴族仲間”意識もあったか、身元を引き受け、実刑を免れたのだという。
 おまけに証空は、京都・西山の善峰寺の別所、往生院を譲られ、ここを活動の本拠地にしていた。
 聖達はその弟子である。証空の配慮で、法難を避け、太宰府に送られていたらしい。そんな裏のドラマを13歳の少年、一遍は知っていたかどうか。
 太宰府は、辺境の地とはいえ、街区は南北2.4キロ、東西2.6キロ。平安京や平城京に比べれば小ぶりだが、一遍の時代にはまだ北の中央に大宰府政庁があり、朱雀大路を中心に碁盤の目のように道路が走っていた。
 百済救援のため九州へ下り、出兵前に亡くなった斉明天皇の菩提をとむらうため、中大兄皇子の発願で建てられた観世音寺の馬頭観音や不空羂索観音像は5メートルを超える威容を誇った。菅原道真をまつる太宰府天満宮もあり、古代、遠(とお)の朝廷(みかど)と呼ばれた。外国使節受け入れの最前線基地だった面影を残す、あでやかな都だったに違いない。
 聖達は政庁の南に横たわるだらかな連山、四王寺山の東端の山麓に広がる原山無量寺の塔頭群の中の一坊にいた。戦国時代の兵火で焼けて今は跡形もないが、天台宗寺門派の祖、円珍の弟子8人が建てた寺で、別名を原八坊。「今みたいに宗派が組織化された時代ではなく、浄土も真言も何でもありの兼学道場だったようです」と大隅さん。
 聖達は、訪ねてきた一遍に浄土教の基礎を学ばせるため、まず肥前(佐賀県)にいた兄弟子、華台(けだい)に預けた。華台は一遍の才能を一目で見抜き、一両年後には、「早く浄土教の奥義を授けてやってほしい」と、聖達の元へ送り返したと「一遍聖絵」は書いている。  文  冨野治彦
 写真左上/福岡・大宰府政庁跡からみた“祈りの山”、四王寺山。東端の麓に原山無量寺があった
 写真右下/菅原道真をまつる太宰府天満宮。境内六千本の梅が可憐な花をつけていた     写真 大塚聡彦
                  (2003/03/05)