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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  二、 宝厳寺 一族没落の時に産声 

 一遍は延応元(1239)年2月、伊予(愛媛県)の道後で生まれた。名もない庶民の家ではない。祖父は瀬戸内一帯を支配した河野水軍の総帥、河野通信。鎌倉幕府の立役者の一人だった。
 兵庫に福原港を築き、日宋貿易を展開するなど海上の覇権を握った平家に対し、関東武士・源氏のアキレス腱は水軍だった。文治元(1185)年、両軍が激突した時、源義経に味方し、平家一門を壇ノ浦に沈める原動力となったのが通信だった。
 やがて承久の乱(1221年)が起き、通信が朝廷方について惨敗し、一族没落の嘆きの海にいた時、一遍は産声をあげている。

 
◆一族流罪、斬首の中で…
 一遍の生誕地といわれる松山市内の宝厳寺を訪ねた。道後温泉本館前の坂道を4、5分登った高台にある。門前100メートルほどの坂道を別名、ネオン坂という。明治時代は遊廓、戦後はスナックや旅館が軒を連ね、湯治客でにぎわったが、最近は休廃業する店が相次ぎ、往時の面影はない。
 しかし、江戸時代まで、坂一帯は宝厳寺の境内で、天台宗の寺(現在は時宗)は十二坊を誇った。
 「その一坊に一遍の父親、河野通広が遁世していたといわれています」と、五十三世住職、長岡隆祥さん(71)はいう。
 河野一族にとって、承久の乱後の幕府の処分は過酷だった。
 その没落ぶり。通信は奥州・江刺(岩手・北上市)へ流罪、長男は討死、二男通政は信濃・葉広で斬首、三男通末も同国伴野(長野・佐久市)へ流罪。四国を中心に60余町といわれた一族の所領は大半、没収された。
 鎌倉幕府誕生の立役者でありながら、この非情さ。武門のならいとはいえ、信賞必罰の残酷さは目をみはるばかりだ。
 そんな中で河野一族の命脈をからくも保ったのが、通信の3人の妻のうち源頼朝の妻、北条政子の妹、谷(やつ)を母親にもち、幕府方についた、四男、通久と、五男(三男説もある)、通広だった。
 伊予在住の通広がなぜ助かったのか、はっきりしない。「乱の時、すでに出家していたか、何らかの理由で戦いに参加しなかったとも考えられる」と、筑波大教授、今井雅晴氏(60)は「一遍辞典」(東京堂出版)の中で書いている。
 一遍はこの通広の二男として生まれている。一家は寺の近郊で息をひそめるようにひっそりと暮らしていたらしい。
 一遍が育った自宅をめぐっては諸説がある。河野氏は、もと越智氏と称した伊予の豪族で、北条市の高縄山(986メートル)に城を築き、やがて山麓から海岸地帯へ勢力を伸ばしていったといわれている。
 「北条市の別府に河野家の屋敷があった、という人もいますが、私は没落後は松山市郊外の別府に一家は住んでいたと思う。河野家の墓というはっきりした証拠はありませんが、今も空き地に数基の五輪塔が残り、地元の伝説になっています」と、地元の一遍会事務局長の三好恭治さん(67)はいう。
 一遍はそれほど時代のかなたにいる。その一遍に、不幸が追い打ちをかけた。十歳の時、実母が亡くなるのだ。  文  冨野治彦
 写真左上/一遍の生誕地とされる宝厳寺山門。「色里や十歩はなれて秋の風」。境内には正岡子規の句碑も建てられている
 写真右下/宝厳寺に残る「越智姓河野家系図」。一遍の俗名、通秀の名も。名門らしく系図をのばせば畳七畳分にもなるという    写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/04)