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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  十四、 因幡堂 訪問3度、縁起に“土”のにおい 

 京都・下京区の因幡(いなば)堂(平等寺)は、今年開基一千年を迎える。一遍が生涯3度も訪れた寺だという。
 今でこそ、市街地のビル群に囲まれ、肩身が狭そうだが、当時は境内約1万坪。「うちの本尊は碁盤の上に立っているんですが、囲碁用語のシチョウのシャレで、境内は4町にまたがる広さがあった」と、大釜諦順住職(48)はいう。
 縁起がいかにも一遍好みの“土”のにおいがする。(1)本尊の薬師如来は、善光寺の阿弥陀如来などと同じ三国伝来の仏で、因幡国(鳥取県)から飛来した(2)境内に四天王寺と同じ西方浄土の東門があった(3)一遍が夢告を受けた熊野権現とゆかりが深い−などだ。
 一遍が最初に訪れたのは弘安2(1279)年、41歳の春だった。

             ◇

 一遍は前年の夏、大分・別府で最初の弟子となった真教のほか、7、8人を同行して故郷の伊予へ帰っている。
 生涯、教団を作らず、時宗という宗派が成立するのは一遍没後、真教が二祖となってからだが、一遍は大分以降、「機縁にまかせて」信奉者の同行を認めた。時衆と呼ばれる念仏集団の始まりだった。
 伊予では、曾祖父、河野通清の百回忌を北条市内の粟井坂で営んだ後、秋には広島・厳島神社を皮切りに山陽道の東進を開始した。これが、このあと故郷へ帰るまで約10年間の本格的な遊行の幕開けとなった。
 不惑、40歳の男盛り。熊野で「捨て放った」超一や念仏房らも同行したらしい。
 備前(岡山県)一の宮、吉備津神社では、留守番をしていた神主の息子の妻が一遍の法話に感激して、その場で剃髪してしまい、帰宅した夫が激怒した。
 夫は後を追い、福岡宿(岡山・長船町)の市場で勧進をしていた一遍を斬ろうと太刀に手をかけたが、その途端、「汝が神主の息子か」の一声に、たちまち怒りの心はやみ、夫もその場で剃髪してしまったという。
 驚くべきことにこの時、一挙に280余人が一遍に帰依し、出家した、と『一遍聖絵』は書いている。
 そんな“勲章”をひっさげての京都入りだった。因幡堂は、頭痛持ちの後白河法皇が熊野大社へ参詣したさい、「インドからきた医者がいる」と夢告を受けて参った。結果、頭痛が治まり、あの三十三間堂を建てるきっかけになった寺でもある。
 一遍は寺僧に一夜の宿を頼んだ。ところが、寺僧は言下に拒否し、やむなく一行は本堂の縁の下で寝るはめになる。
 「地方で名をあげた一遍ですが、京都ではまだ無名の僧。薄汚れた身なりや女連れの集団をみて寺僧はびっくりしたんだと思いますよ。拒否したのもわかるような気がする」と、大釜さん。
 が、その夜、住職、覚順の夢枕に薬師如来が立ち「大事の客人である。もてなすべし」といわれ、夜半に急きょ、一行が本堂にあげられるドタバタ劇もあったようだ。
 薬師如来は、病の治療に霊験あらたかな仏。国ではなく、町衆が支えた庶民の“お堂”だったこともあって、念仏札を配るにはかっこうの場所だった。しかし、初回は、はかばかしい成果はあがらなかったようだ。
 一行はこの後、長野の善光寺へ向かった。今なら、大阪から特急または新幹線名古屋経由で、5時間足らずだが、一行はあちこち立ち寄ったらしく、実に48日をかけての苦難の道中だったという。       文  冨野治彦

 写真/今年開基一千年を迎える因幡堂の本尊、薬師如来像。日本三如来の一つといわれる=京都・下京区             写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/20)