十三、 別府・鉄輪温泉 断食祈願“地獄”を鎮める
蒙古襲来(文永の役)。未曾有の戦禍がまだ残り、しかも再戦必至という騒然とした空気の中を、一遍は福岡を皮切りに3年がかりで九州一円を回っている。
なかでも印象的なのは、大分・別府の鶴見岳(1375メートル)の麓にひろがる鉄輪(かんなわ)温泉の開発伝説だ。
竜巻、血の池、鬼山…。聞くだにおぞましい“地獄めぐり”。今でこそ観光の名所になっているが、一遍の頃は熱湯、熱泥、熱気が荒れ狂う文字通りの地獄の大地だったらしい。
「一遍は里人の困惑を聞き、鶴見権現に二十一日間、断食祈願をし、神託を受けて、大蔵経の経文を一字一石に書写して投げ込み、鎮めたそうです」と、地元の永福寺住職、河野憲勝さん(五四)はいう。
◆豊後の守護・大友氏が帰依
その一つ、寺の近くの「蒸し湯」を訪ねた。人一人がしゃがんでやっと入れる木戸を開けた途端、ドドッと蒸気が噴出し、目を開けていられないほど。熱気みなぎる室へ這って入ると、石の枕が8つ。床にはショウブの一種、石菖(せきしょう)が一面に敷かれ、ほのかな香り。客はこの上に寝て、汗を目一杯かくのだという。
「石菖の薬効もあって、ぜんそくや花粉症など気管支系の病気には効果満点。一カ月逗留する人も珍しくはないよ」と、受付のおばさん。入り口には一遍の木像がまつられ、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えつつ入る客も多いそうだ。
豪華さを競う最近の温泉スポットにはない素朴さ。温泉治療の原点をみるようだ。
負傷兵だけでなく、飢饉や戦乱に巻き込まれた庶民救済のための温泉開発だった。そんな一遍に深く感謝し、帰依したのが豊後(大分)の守護、大友頼泰だった。
「(頼泰は)文永の役で傷ついた将兵の治療と休息にあてるとともに、一遍のために温泉山松寿寺(現・永福寺)を建立し、あわせて熊野社を勧請して権現の霊験に感謝した」と、元一遍会会長、故越智通敏さんは『一遍 遊行の跡を訪ねて』(愛媛文化双書)の中で書いている。
大友氏は、初代能直(よしなお)が、源頼朝から豊後国守護職に任じられて以来、22代義統(宗麟(そうりん)の子)に至るまで約400年間、地元で勢力を張った名門だ。
三代目の頼泰は、蒙古襲来を機に赴任し、鎮西奉行として博多防衛にあたり、一時帰国して温泉開発の朗報を知ったのだという。
一遍は、福岡、佐賀、熊本をへて鹿児島の大隅正八幡宮へ参詣、北上して鉄輪へ来ている。この間、喜捨する人もなく、山中では野宿をし、法衣はボロボロで裸同然の遊行だったらしい。
それが一転、大友氏の帰依を受けるのだ。初代能直は頼朝の実子という説もあり、北条政子の妹を妻にした河野通信を祖父にもつ一遍とは遠い姻戚関係にあったとみられるが、衣食の布施など厚遇され、同寺に約1年間滞在している。
しかも、滞在中、後に一遍の後継者となる時宗二祖、真教(しんきょう)が弟子入りしている。一遍の法談に真教は
心肝に染み感涙落つ。たちどころに有為無常の理を悟り、年来所居のすみかを捨てて、堅く師弟の契約をなし、多年随逐し奉る
(熊野権現奉納縁起記)
真教は浄土宗鎮西派の弁西に学び、当時、近くの瑞光寺にいたという。一遍より2歳年上の41歳だった。 文 冨野治彦
写真左上/朝焼けの別府・鉄輪温泉。街のいたるところから勢いよく湯煙が噴き出している
写真右下/鉄輪温泉のほぼ中央にある時宗「永福寺」。温泉を開発した一遍の功績をたたえて建てられた 写真 大塚聡彦
(2003/03/19)
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