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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  十二、 熊野(2) 他力の深意を領解せり 
 
 「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わずその札を配るべし」。熊野権現の神託に、一遍は「他力本願の深意を領解(りょうげ)せり」(一遍聖絵)と、のちに異母弟の聖戒に語っている。
 禅でいう悟り。からりと心身が脱落した思いだったようだ。
 熊野大社から熊野川を下り、新宮まで来たところで一遍は思い切った行動に出る。超一、超二ら同行3人の女性を「思ふやうありて放ち捨てつ」。一遍は一人になって遊行を始めるのだ。
 「女、子供を連れてきたのはやっぱり間違いだった、と気づいたんだと思います。これからしばらく、とんでもない貧乏旅行が続くんです」と、相愛大教授、砂川博さん(55)はいう。

 
◆38歳、再び激震の地・九州へ
 一遍の大師号は、証誠(しょうじょう)大師。熊野大社・証誠殿の夢告がいかに大きかったかの証だ。以来、時宗歴代の遊行上人は、就任すると必ず、熊野大社へ参詣することが義務になっている。
 浄土真宗の祖、親鸞(1173−1262)が「念仏は無碍(むげ)の一道なり」といい、神祇不拝を旨としたのとは対照的だ。
 2人を日本浄土教の双璧とみる筑波大教授、竹村牧男さん(54)は「一遍にとって、熊野の神は、日本の神祇というよりは、阿弥陀仏に出会う通路、あるいは阿弥陀仏が我々の場に降りてくる通路だった。一遍はいくつかの神社に心をこめて参詣している」と、『親鸞と一遍』(法蔵館)の中で書いている。
 一遍は、夢告を受けた後、故郷にいる聖戒への手紙の末尾に「六十万人頌」を記した。

 六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華

 名号こそが、宇宙の真理であり、生きとし生きるものすべてに共通する教え。泥の中から咲き出した清らかな蓮華の花だ、と称え、「一」は即「遍(普遍)」に通じると宣言している。
 華厳経の一即多、多即一にも通じる発想で、念仏は一回称えるだけでいい、という考え方の根拠もここにある。
 この七言絶句の頭の文字を並べると「六十万人」。一遍はこれ以後、「南無阿弥陀仏」の名号の下に、「決定往生六十万人」と二行に書き加えた札にして、人々に配るようになる。自分の法名、一遍もこれを機に名乗るようになったらしい。
 これが、文永11(1274)年6月のこと。10月には、ついに高麗・蒙古連合軍が博多へ上陸する。鉄砲などの最新兵器に加え、集団で攻め立てる画期的な戦法で、一騎打ちが原則の幕府軍を撃破する。偶然の暴風雨で危うく助かったとはいえ、死傷者はおびただしい数にのぼったといわれている。
 一遍が女性陣を捨て、一人で列島を歩き出したのは、まさにそのさなかだった。京都へ出た後、戦禍も生々しい西海道(九州地方)を巡り、翌年秋、故郷の伊予へ。伊予の国中を念仏勧進して回った。
 が、そんな一遍の祈りとはうらはらに、鎌倉幕府は一遍が伊予にいた9月、元の使者を鎌倉滝口で斬殺。翌建治2(1276)年3月には、九州の将兵に蒙古再来に備え、博多周辺の海浜に石塁を築くよう命じるなど、両国の緊張関係は高まる一方だった。
 意を決したか、一遍は再び激震地、九州へ旅立った。38歳になっていた。
       文  冨野治彦
 写真左上/熊野本宮大社前の参道。明治22年の大洪水で、移転した。一遍の頃の社殿は、近くの熊野川の中州、大斎原にあった
 写真右下/新宮市の熊野速玉大社。一遍は、同行の女性3人とこの近くで別れたらしい
             写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/18)