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   一遍  旅に生きる  苦闘編
  十一、 熊野(1)不安が現実…念仏札を拒否 

 熊野三千六百峰はうっそうとした原生林に包まれている。死者の霊が鎮まる山の聖地だ。熊野灘には、観音・補陀落の浄土の海が広がる。
 一遍一行が、高野山から熊野へ向かったのは、文永11年(1274)夏。故郷の松山を出て、約3カ月。「山海千重の雲路をしのぎて、岩田河の流れに袖をすすぎ」(一遍聖絵)とあり、紀伊田辺から中辺路経由で熊野大社をめざした。
 大阪・四天王寺で念仏札を配り始めた一遍だったが、まだ完全にはふっきれてはいなかったらしい。その不安が熊野の山中で現実になる。
 一人の僧に、一遍が念仏札を渡そうとすると、「今、信心が起きない。こんな気持ちで受け取れば、嘘つきの罪を犯すことになる」と、受け取りを拒否されたのだ。

 
◆人の心などあてにならぬ
 平安時代の市の聖、空也のひそみにならって念仏札を配り始めた一遍だ。自信をもって渡した札がよもやの拒否にあう。ショックは大きかったに違いない。拒む僧に一遍は念仏札を無理に渡し、逃げるようにして熊野大社へ急いだ。
 「最初は、他界信仰の霊場としての熊野をめざしたんでしょうが、あの事件で、参篭の意味が違ってきたかもしれない」と、同社宮司、九鬼家隆さん(46)はいう。
 同社の祭神は、第三殿の証誠(しょうじょう)殿に鎮座する家津御美子(けつみみこ)の大神。スサノオ尊の別名といわれ、神仏習合時代の本地仏は、阿弥陀如来だった。
 一遍は、証誠殿の縁下(高さ約1.5メートル)にある長床に篭もった。ショックを胸に熊野大権現を念じ続けたらしい。すると、ある日、証誠殿の御戸を押し開いて、白髪の山伏姿の権現が現れ、

 御房のすすめによりて一切衆生はしめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし、としめし給ふ

 と、夢告があったのだという。

 (一遍よ、お前の念仏の勧めで衆生は往生するのではないぞ。お前が札を配ろうが配るまいが、相手が信じようが信じまいが、そんなこととは無関係に衆生は阿弥陀仏に救われているのだ。
 自分が救わねば、などというリキんだ考えは捨てよ。謙虚に札を配り、衆生と阿弥陀仏を結縁させればいいのだ)

 この時の衝撃を一遍は、「播州法語集」で

 「心はよき時もあしき時も、迷ひなるゆえに、出離の要とはならず。南無阿弥陀仏が往生するなり」と云々。われ、この時より自力の意楽をば捨てたり

 と言っている。

 (これまでは自分の分別でものごとを考え、受け止めてきた。が、人の心というのは、良い時であれ、悪い時であれ、迷いそのもの(我執)だから出離のカギを握ってはいない、と夢告を受けた。私はこの時から、自力のはからいを捨てた)

 人の心などアテにはならない、と一遍はいうのだ。南無阿弥陀仏の六文字にすべてが凝縮されており、我執を捨てて名号と一体となれば、名号の不可思議な力が衆生を救ってくれる。
 「紙を水につけると、濡れるなと念じ、口で言っても濡れてしまう。それと同じでね、極楽へなど行きたくない、といっても名号を称えるだけで行ってしまう、という理屈なんです」と鳥取大名誉教授、金井清光さん(80)はいう。一遍大悟の瞬間だった。     文  冨野治彦

 写真左上/熊野本宮大社の証誠殿。「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」と、一遍は“大悟”のきっかけとなる夢告を受けたという
 写真右下/熊野本宮大社の境内にひるがえる「ヤタガラス」の旗。これは、神武天皇東征を導いた鳥だ              写真 大塚聡彦
                                             (2003/03/17)