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   一遍  旅に生きる  伝法編
   九、 姫路・書写山円教寺  48歳、長旅の終わり近づく
 
 暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
 平安時代の歌人、和泉式部の歌。一条天皇の中宮、上東門院彰子ら女七人と姫路市の観音霊場、書写山円教寺(標高三七〇メートル)へ登り、開山、性空(しょうくう)(九一〇−一〇〇七年)に面会を求めたが、断られたときに詠んだ。
 性空は式部の歌に感動し、下山しかけた一行を呼び止めて、面会したという。性空の返歌。
 日は入りて 月まだ出ぬたそがれに 掲げて照らす 法(のり)の灯(ともしび)
 播州路へ入った一遍は、弘安十年(一二八七)春、円教寺を参詣している。四十八歳。日本の山野をはるばると歩いてきた長い旅路の終わりが近づいている。

 ◆諸国修行の思い出 ただ書写山巡礼に
 性空は、今は末法の世といい、釈迦入滅の後、次に衆生を救う弥勒菩薩下生まで五十六億七千万年かかるというが、その“たそがれ”の期間、法華の教えを灯として示そう、と和泉式部に返歌した。
 数々の恋愛遍歴。愛憎や葛藤に無常を感じた式部が性空に救いを求めたともいわれている。書写山は女人救済の山でもあった。
 本尊は如意輪観音。性空が崖地の桜木に天女が舞い降りるのを感得し、切り倒さず、生木のまま一心に彫り上げた。舞台造りの摩尼殿(まにでん)にまつられているのだが、一遍はこの本尊をなんとしても拝観したかったらしい。
 が、寺僧に「長く仏道を修行し、その域に達した者以外はできない」と拒否される。「ならば仏の意向を仰ぎたい」と、粘り、書写山を称える偈文を捧げたあと、
 書き写す 山は高嶺の空に消えて 筆もおよばぬ 月ぞ澄みける
 と、詠んだ。
 和泉式部の歌と響き合い、寺僧は「この聖は他の人とは違う。願いをうち捨てるわけにはいかない」といい、特別に許可したという。一一七四年に後白河法皇が拝して以来、誰も見た者がなく
 紙燭さして一人内陣に入り給ふ。本尊等を拝したてまつり、落涙していで給ひけり
 と『一遍聖絵』は書いている。如意輪観音に、逝った相棒、超一の面影でも見たのだろうか。
 「性空は法華経の行者だったが、胸には阿弥陀仏の刺青があったといわれています。念仏と法華はそぐわない感じがしますが、当時はそうでもなく、寺僧にも一遍の気持ちが通じたのではないか」と、執事長の大樹玄承さん(四六)はいう。
 性空は、平安時代の有力氏族、源・平・藤・橘の橘氏の出身。橘氏の“希望の星”でもあったという。が、二十八歳で父を失い、栄達の道を捨てて三十六歳の時、比叡山で出家。望んで九州の霧島、背振山で二十年に及ぶ山岳修行に励み、書写山へ入ったのは、なんと五十七歳だった。
 悲運の天皇、花山院が一条天皇の外祖父、藤原兼家の陰謀で、わずか十九歳で強引に出家させられた時、命の危険もかえりみず、はるばると訪ねたのが性空だった。
 性空は失意の花山院に、奈良・長谷寺の開基、徳道が始めた西国三十三観音霊場巡りのいわれを説き、巡拝をすすめた。花山院は感動し、旅立ったとされ、今の霊場めぐり中興の祖ともいわれている。
 (性空)上人の仏道修行の霊徳、言葉もおよびがたし。諸国修行の思ひで、ただ当山巡礼にあり
 『聖絵』の中で、一遍は「これまでの諸国修行の思い出は、ただ書写山巡礼にあった」とまで言っている。       文 冨野治彦

 写真左上/書写山円教寺の摩尼殿。雨に濡れ、しっとりとした新緑に威風堂々の建物がひときわ映える
 写真右下/摩尼殿の本尊、如意輪観音のレプリカ。円教寺は西国三十三所霊場の二十七番札所に当たり、参道の坂道両脇に各霊場の本尊が並んでいる  写真 大西正純
                                             (2003/06/19)