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   一遍  旅に生きる  伝法編
   八、 京都・石清水八幡宮 王城の裏鬼門へ
 
 京都・男山の石清水八幡宮へ一遍の一行がやってきたのは弘安九年(一二八六)の冬。二回目の蒙古襲来(弘安の役)から五年がたっていた。
 蒙古襲来前後には、亀山上皇が戦勝祈願に行幸したほか、真言律宗の祖、叡尊が麓の神宮寺、大乗院に止住し、念持仏の愛染明王に異国降服の祈とうをしている。
 当時の混乱は一段落していたとはいえ、なお蒙古再来襲の噂が根強く、幕府は博多湾の防衛に神経をとがらせていた時代だった。
 「王城・京都の鬼門(北東)が比叡山。御所をはさんで裏鬼門が男山なんです。神仏で王城を守ろうとしたんですね。その一方で、戦争犠牲者らの御霊を慰め、疫病を鎮める神社でもあった」と、禰宜の西中道(なかみち)さん(四八)はいう。

 ◆人生観は「山川草木、鳥獣虫魚、悉皆成仏」
 男山は標高一二三メートル。ゆるやかな坂道の参道は、クスノキ、カシ、サカキなど新緑の森。ウグイス、ヒヨドリ、カラスの鳴き声。ビロードのようなコケ類に木漏れ日が降り注ぎ、都会の喧騒をしばし忘れさせてくれる。高台からは木津、宇治、桂の三川合流点が見える。
 略縁起によると、平安時代、摂関政治の“元祖”となった藤原北家の良房が、外孫で当時九歳の惟仁親王(のちの清和天皇)擁立のため、対立氏族・紀氏出身の奈良・大安寺の律僧、行教を祈勅使として、大分の宇佐八幡宮へ派遣、「我れ、近く都に移って国家を鎮護せん」との神託を得て、この地へ勧請したのが始まり。
 平将門・藤原純友の乱鎮定に霊験があったと、朝廷から歌舞人が訪れたり、藤原摂関家を外戚にもたない後三条天皇が即位後、感謝をこめて放生会を勅祭にするなど、国家動乱の時代には脚光を浴びてきた。清和天皇の子孫、源頼朝ら源氏一門の守護神としても知られている。
 一遍はここで何を祈ったのだろうか。
 金方刹(きんほうせつ)(極楽浄土)の月をあふがむ人は、頭を南山の廟(八幡宮)にかたぶけ、石清水の流れをくまむたぐひは、心を西土の教えにかけざらむや
 と『一遍聖絵』は書いている。八幡神の本地は阿弥陀仏だ。「ここは放生会が盛んで、年間六十万匹の魚を近くの放生川に放した、という記録もある。一遍は(敵味方を問わず)戦争犠牲者の慰霊をしたのかも知れない」と、西さんはいう。
 そういえば、一遍は晩年、河野一族の氏神でもある愛媛・大三島の大山祗神社へ参詣した時には、正月と十一月に魚鳥をいけにえとして神の供物にしていた「神撰」をやめるように、と神社に勧告している。
 山川草木、鳥獣虫魚、悉皆(しっかい)成仏は、一遍の人生観でもあったようだ。
 余談だが、融通念仏の六代良鎮が一一八二年に没し、後継者に恵まれず、法灯が一時途絶えたとき、総本山・大念仏寺がその法儀、霊宝一切を預けたのが石清水八幡宮だった。
 百三十九年後、高野聖だった後の七代法明の夢枕に、「お前こそが融通念仏の法灯を継ぐ器である」と、石清水八幡神が現れ、融通念仏の口伝を授与したうえ、霊宝返還を告げている。
 大念仏寺では、この故事にちなんで本尊の十一尊天得如来の脇侍として、宗祖、良忍に神名帳を与えた毘沙門天と一緒に、僧形の八幡大士をまつっている。    文  冨野治彦

 写真左上/京都・男山の石清水八幡宮本殿。比叡山と並ぶ王城・京都の守護神だった
 写真右下/石清水八幡宮参道のゆるやかな坂道。新緑、鳥の鳴き声が都会の喧騒をしばし忘れさせてくれる     写真 大西正純

                                             (2003/06/18)