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   一遍  旅に生きる  伝法編
   七、 奈良・當麻寺 極楽夢見て姫が織った曼荼羅 
 
 その時、仏は長老、舎利弗(しゃりほつ)に告げたもう。「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽という」
 =『あなただけの阿弥陀経』(小学館)より
 「阿弥陀経」本論の書き出し。阿難尊者がインドの祗園精舎で、阿羅漢ら高徳の修行僧千二百五十人を前に、師の釈迦から聞いたという弥陀仏が住む極楽浄土の風景を華麗に語り始めるのだ。
 この極楽世界を夢に見て阿弥陀仏に一目会いたいと一心に祈ったのが奈良時代の右大臣、藤原豊成の娘ともいわれる中将姫だった。
 奈良・當麻寺(たいまでら)の本堂にある六角宮殿型の厨子(国宝)に、姫が蓮糸で織ったという伝説の當麻曼荼羅が掛けられている。

 ◆中将姫の称讃浄土経 譲られる
 「この曼荼羅は、大日如来を中心に仏を並べる密教系の金胎曼荼羅ではなく、極楽の様子を描いた浄土変相図。鎌倉時代、念仏聖が盛んに模写し、全国を勧進して歩きました」と奥院住職、川中光教さん(五三)はいう。
 一遍は、大阪・四天王寺、住吉大社、聖徳太子の廟がある太子町の叡福寺を巡った後、當麻寺を訪れている。
 聖、参籠のあひだ、寺僧、寺の重宝称讃浄土経一巻をたてまつりけり。この経は本願、中将の妃の自筆の千巻のうちなり
 と、『一遍聖絵』は書いている。称讃浄土経は、三蔵法師玄奘が訳した阿弥陀経の異訳本。中将姫が書写した千巻のうちの一巻を一遍に譲ったというのだ。
 寺僧の一遍への傾倒ぶりをうかがわせるようなエピソード。「捨ててこそ」を身上とした一遍も「(中将姫は)勢至菩薩の化身と申す説もはべれば」と、この経巻だけは以後の遊行に持ち歩き、息をひきとる直前、姫路・書写山円教寺の寺僧に譲っている。
 當麻寺は、融通念仏の良忍との縁も深く、この連載の二回目に紹介した総本山・大念仏寺の万部おねりは、五月十四日夕方に行われる當麻寺の「當麻れんぞ」といわれる練供養会式がルーツ。
 空海は、當麻曼荼羅を見てこの世に浄土を実現させようと説いているし、一遍の師の師にあたる浄土宗西山派の祖、証空も一二二九年に参詣、この曼荼羅をみて感涙にむせんだ。
 「法然没後、証空は弟子二十五人と訪れ、“當麻曼荼羅注”十巻を著し、田地を寄進。さらにこの曼荼羅を播磨法眼澄円に描かせ、信濃の善光寺に寄進した」と、當麻町史は書いている。
 「昔は南向きの寺だった。それが當麻曼荼羅が奉納された後、入り口が東に変わっていくんです」と川中さん。
 寺の北西にラクダのように二つのこぶが連なる二上山。その西麓には、聖徳太子のほか、推古、用明、敏達などの天皇陵が並ぶ“王陵の谷”がある。當麻寺も創建時、この付近にあったのだが、天武十年(六八一)に二上山を越え、東麓の現在地に移ったという。
 最初は古代の国道、竹内街道から二上山を越えて寺へ入れるようになっていたが、當麻曼荼羅が奉納され、浄土信仰の高まりとともに仁王門がある今の東門が山門になっていったらしい。
 その二上山の鞍部に夕日が沈む。空海が、良忍が、証空が、そして一遍も見た夕日と思えば、感慨もまた格別である。
 十万億の仏土のかなたでは、今も阿弥陀仏が昼夜説法をしている、と阿弥陀経は書いている。    文  冨野治彦

 写真左上/二上山に沈む夕日。西方、十万億土のかなたでは、今も阿弥陀仏が説法をしているという
 写真右下/中将姫が蓮糸で織ったという伝説の當麻曼荼羅。極楽浄土の様子が描かれ、国宝の六角宮殿型の厨子に掛けられている=奈良・當麻寺の本堂  写真 大西正純
                                             (2003/06/17)