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   一遍  旅に生きる  伝法編
   六、 京都・四条大橋 身動きできぬほどの賑わい
 
 一遍が京都へ入ったのは弘安七年(一二八四)閏四月。四十六歳。前月四日に鎌倉幕府八代執権、北条時宗が三十四歳の若さで逝ったばかり。音曲規制や殺生禁断など、喪服令が出ているさなかだった。
 が、『一遍聖絵』を見る限りそんな重苦しさは少しもない。
 貴賤上下群をなして、人はかへり見る事あたわず、車はめぐらすことをえざりき
 今の四条大橋西詰めあたり。一遍が最初に訪れた釈迦堂境内の身動きできないほどの賑わいを『聖絵』は描いている。
 道場では踊り念仏が終わった後らしく、一遍が屈強な僧に肩車されて、群衆に念仏札を配っている。

 ◆「政治より念仏優先」で人気
 この後、一遍は「我が先達」と仰ぐ空也ゆかりの六波羅蜜寺などを巡り、空也がかつて念仏勧進をして歩いたという市屋跡(今の西本願寺付近)へ。道場は二階建て。二階では一遍が鉦を叩いて、時衆が乱舞し、一階の柱には子供がぶらさがって遊ぶ。周囲には牛車がひしめき、高僧や貴族が続々、結縁に訪れている。
 五年前、因幡堂を訪れたとき、追われるように信濃の善光寺へ向かったのとは対照的な歓迎ぶりである。
 鎌倉・片瀬など道中の活躍が刻々と花の都にも伝わり、一遍がすでに揺ぎない実力、地位を築いていた証拠だろう。
 だが、その一方で、「喪中のバカ騒ぎと見えなくもない」というのは和歌山大助教授、海津一朗さん(三四)だ。「一遍が幕府の命令に従って異国降服の祈とうをしたという話は聞かない。鎌倉入りも拒否されている。あのバカ騒ぎは、そんな一遍の意思表示だったのではないか」
 これに対し、空也を開祖とする京都・下京区の時宗「西蓮寺」住職で、元園田学園女子大教授、梅谷繁樹さん(六二)は「一遍にそこまで強烈な反権力意識があったとは思えない。むしろそんな時代だったからこそ、政治より念仏を優先させ、名もない庶民や武士の極楽往生を願った。それがあの人気につながったと思う」という。
 いずれにしても一遍は京都に四十八日間滞在した。『聖絵』は、一遍が出家した頃、よく口ずさんだという空也の漢詩を載せている。

 求名為願衆身心疲
 積功為修善希望多
 不如孤独無境界
 不如称名抛万事

 名声を求め、人々の帰依を望み、評判を求めると、身も心も疲れ果てる。功徳を積み、善根を修めようとすれば、いらぬ希望が多くなる。一人ぼっちで何の地位もないのが何よりである。称名して万事を捨てるにしくはない=『一遍全集』(春秋社)より
 人でにぎわう市場や町中で説法した空也を「市聖(いちのひじり)」。対して、一遍は「捨聖(すてひじり)」と呼ばれた。「捨ててこそ」と生涯言い続けた一遍の真髄がここにある。
 市屋道場を出た一遍は、今の桂川のほとり、桂離宮付近にあった道場へ移り、病に倒れる。京都での布教を終えた安堵感。脳裏に超一の死がよぎったのかも知れない。三カ月ほど寝ていたようだ。
 この後、約一年半かけて山陰、山陽地方を巡り、弘安九年(一二八六)には再び近畿へ帰ってくる。 文 冨野治彦

 写真左上/京都・四条大橋。鎌倉時代、西詰め付近に釈迦堂があり、一遍は境内が身動きできないほどの歓迎を受けたという
 写真右下/一遍が「我が先達」と仰いだ空也。鹿の角の杖をつき、胸の鉦を叩きながら念仏を勧進して歩いた。口からは6体の阿弥陀仏が飛び出している(六波羅蜜寺提供)
                                  写真 大西正純
                                           (2003/06/16)