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   一遍  旅に生きる  伝法編
  五、 滋賀・長安寺 旅の厳しさ、超一の死 

 陰になり日なたになり一遍につき従ってきた超一が死んだのは、弘安六年(一二八三)十一月二十一日だった。「時宗過去帳」に載っている。
 この時代、遊行は死につながっていた。(伊豆の)三島神社へ詣った時も、一時に七、八人が同時に往生をとげたとある。(中略)箱根越えのきびしさや食料不足からの栄養失調と過労死であったのではないだろうか。時宗過去帳にはこの旅で次々に死亡していく時衆の名が無気味なほど列挙されている。
 瀬戸内寂聴さん(八一)は谷崎潤一郎賞受賞作『花に問え』(中央公論新社)の中で書いている。

 ◆哀しみのあまり病に伏す
 愛知から岐阜へ出て、中山道沿いに琵琶湖東岸を南下、逢坂山・長安寺(関寺)へ向かう途中。京を目前にしての超一の死だった。
 「超一が死んでから、一遍は弱りますよね。みるみるね。やっぱり超一に支えられていた面があったんでしょうね。そこんとこがとてもいいと思って(『花に問え』を)書いたんです」と瀬戸内さんはいう。
 「僧、尼を引き連れて歩いたから、一遍は女性をも救ったといわれてますが、考えてみれば踊りも歌も女性の方がきれいじゃないですか。女性は一遍の布教の武器でもあった。一遍は女性を救ったのではなく、女性が一遍を支えていたともいえるんです」というのは筑波大教授、今井雅晴さん(六〇)だ。そのリーダーが超一だったという。
 『一遍聖絵』は、超一の死については一行も触れてはいない。が、一遍は翌年、京に入り、熱狂的な歓迎を受けるが、その熱狂とはうらはらにやがてしばらく病に伏す。『聖絵』はこの前後に詠んだ一遍の歌や法語を載せている。
 おのづから あひあうときも別れても 一人は同じ 一人なりけり
 思ひとけば 過ぎにしかたも行く末も ひとむすびなる 夢の世の中
 それ生死本源の形は男女和合の一念、流浪三界の相は愛染妄境の迷情なり。男女かたち破れ、妄境おのづから滅しなば、生死本無にして迷情ここに尽きぬべし。
 生死の世界に浮き沈みする根元は、男女相愛の心であり、男女の形がこわれ、迷いの境地が自然となくなれば、迷いの心もなくなるであろう=『一遍上人全集』(春秋社)より
 夫婦の縁は「放ち捨て」ていたとはいえ、これらを超一の死と重ね合せて読むと、かけがえのない相棒を失った人間・一遍の哀しみがしみじみと胸に迫ってくる。
 長安寺は、天台宗の総本山比叡山の麓にある。三井寺の末寺で、文字通り京への関所ともいえる寺だった。寺伝では、山上に日本三大仏の一つ、五丈(約十五メートル)の弥勒仏があり、九七六年の大地震で本堂もろとも倒壊したときに復興に尽力したのが、叡山横川の学僧、源信。日本浄土教の源流の一人だった。
 一遍は寺の境内で踊り念仏をしている。延暦寺の僧が「踊りて念仏申さるるとは、けしからず」と抗議してきたとき、一遍が詠んだ歌。
 跳ねば跳ね 踊らば踊れ春駒の のりの道をば 知る人ぞ知る
 僧はなお非難した。
 心駒 乗り鎮めたるものならば さのみはかくや 踊り跳ぬべき
 また一遍。
 とも跳ねよ かくても踊れ心駒 弥陀のみのりときくぞ うれしき
 この応酬で僧は発心、一遍に帰依し、念仏の行者になったという。    文  冨野治彦

 写真左上/逢坂山の麓にある長安寺(関寺)本堂。そばの池には、かつて、とうとうと山の清水が流れ落ち、付近の家へ給水していたという
 写真右下/「一遍は、やっぱり超一に支えられていた面があったんでしょうね」と話す瀬戸内寂聴さん=京都市内の寂庵で            写真 大西正純
                                             (2003/06/13)