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   一遍  旅に生きる  伝法編
  四、 愛知・甚目寺 前年は凶作、布施も少なく 

 湘南の片瀬を出発した一遍の一行が箱根山を越え、伊豆・三島神社に詣でた後、愛知県へ入ったのは弘安六年(一二八三)の早春だった。
 弟子の他阿真教(後の二祖)らと愛媛・松山を出てからすでに五年。山陽道から京都、信濃、岩手まで行っての南下途中であり、歩いた距離は優に五千キロを超えていただろう。
 疲労が重くのしかかる。加えて前年は全国的な凶作で、一行への布施も少なかったようだ。
 惜しめどもついに野原に捨ててけり はかなかりける人のはてかな
 一遍と真教二人の伝記をまとめた『遊行上人縁起絵』は、「ある野原をすぎられけるに、人の骸骨多くみえければ」と前書きしてこんな歌を載せている。

 ◆念仏行 毘沙門天が供養の助け
 二度目の蒙古襲来(弘安の役)に勝ったとはいえ、再来襲の噂が絶えなかった。国書が来るたびに幕府は博多に軍勢を集結させ、寺社に異国降服の祈とうをさせている。加えての凶作だった。
 重苦しい暗雲が漂う中で、一遍は今の名古屋市の西の郊外にある甚目寺(じもくじ)で七日間の念仏行をしている。
 寺の本尊は聖観音。推古五年(五九七)、伊勢の漁夫、甚目龍麿(はだめたつまろ)が、近くの海岸で網を打ったところ、かかったのが紫金の観音像。草堂を建ててこの観音をまつったのが始まりとされる。天智天皇の病気平癒の勅願寺でもあった。
 「鎌倉街道が岐阜と桑名方面へ分かれる分岐点に当たり、川の渡しもあった。市がたち、にぎやかな場所だったようです」と、輪番住職の岡部快晃さん(五〇)はいう。
 『一遍聖絵』は、不思議なエピソードを書いている。念仏行を始めたものの、供養のための食物が絶えてしまった。嘆く寺僧に一遍は「断食をしても必ず宿願をはたすべし」と激励した。その夜のことだった。
 近くに住む二人の有徳人の夢に同時に毘沙門天が出現、「我、大事の客人をえたり。必ず供養を」と告げた。翌日、二人が甚目寺へ行くと、毘沙門天が台座から降り、立っていたというのだ。
 甚目寺の聖観音像の脇侍の一体が毘沙門天。観音経の中では、時と場所に応じて三十三身に姿を変えて衆生を救う変化観音の中の一身でもある。
 「毘沙門天は、武門の守護神であると同時に福徳を授ける商業の守り仏でもあった。物納から金納へ。産業構造の変化で、新興の商人たちが毘沙門天を信仰し、当時、一種の流行神になっていた」と筑波大教授、今井雅晴さん(六〇)さんはいう。有徳人は、その新興勢力だったようだ。
 彼らは自分の米蔵を開けて、一遍の一行だけでなく、飢えに苦しむ「乞食」や障害者らにも大規模な施行を行った、と『遊行上人縁起絵』は書いている。
 甚目寺の近くに時宗「光明寺」がある。二祖、真教を開祖とするが、全盛の室町時代には、足利尊氏が訪れたこともあるほどの寺だった。
 この寺で小僧時代をすごしたのが、後の豊臣秀吉。お経や習字などの習い事がすむと、その草紙を寺の大榎(えのき)にかけ、遊びに飛び出したという。
 前名の木下藤吉郎の木下は、この榎にちなんだといわれ、三代目というその大榎が今も門前に立っている。       文  冨野治彦

 写真左上/甚目寺観音本堂。有徳人の夢に出現した本尊、聖観音の脇侍、毘沙門天の導きで、一遍一行は大施食を受けたという=愛知・甚目寺町
 写真右下/甚目寺境内の三重塔(重要文化財)。高さ28メートル。本尊は愛染明王だ
                                   写真 大西正純
                                             (2003/06/12)