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   一遍  旅に生きる  伝法編
  三、 湘南海岸 鎌倉のはずれ、刑場跡へ 

 カッと照りつける日差し。浜辺にビーチサッカーの歓声が響く。波間にはカラフルなウインドサーフィン。遠くにはヨットの群れ。カイトボードもゆらゆらと揺れている。
 神奈川県の湘南海岸はマリンレジャーのメッカだ。年間八百五十万人、一夏で二百万人が訪れるのだという。
 一遍がこの湘南の片瀬海岸(藤沢市)へ来たのは、弘安五年(一二八二)三月。長野・佐久から白河の関を越え、奥州江刺(北上市稲瀬町)にある祖父、河野通信の墓へ詣でた帰りだった。
 「当時は鎌倉幕府のはずれにあたり、罪人の処刑場があった。今のにぎわいからは想像もできないようなうら寂しいところだった」と、時宗宗学林講師、高野修さん(六八)はいう。

 ◆花のことは花に問え
 その刑場跡に日蓮宗霊場本山「龍口寺」が建っている。一二七一年、幕府の政策を批判した宗祖、日蓮が法難にあったゆかりの地だ。三年後には最初の蒙古襲来(文永の役)、その翌年には国使としてやってきた元の国使ら五人がここで斬首されている。
 騒然とした時代だった。幕府は、全国の一宮、国分寺などに異国降服の祈とうを指令し、ことあるごとに主要な神社、仏閣では、護摩の煙が立ち昇り、振鈴の音が響き渡っていた。
 「中世の戦争は地上の人間だけでなく、仏神をも戦場へ動員し、ともに戦ってもらうという考え方だった。だから幕府は霊験があった寺社にも恩賞を出していた」と、和歌山大助教授、海津一朗さん(三四)はいう。
 一遍片瀬入りの前年六、七月が二回目の蒙古襲来(弘安の役)だった。十四万人、四千五百艘の大艦隊が北九州へ押し寄せ、幕府軍と海陸で交戦している。一遍のいとこ、河野通有が博多・志賀島の敵船に切り込み、負傷しつつも武名をあげ、叔父の通時が戦死したのはこの時だった。
 奈良・西大寺の中興で真言律宗の祖、叡尊(一二〇一ー一二九〇年)が京都・石清水八幡宮で、念持仏の愛染明王に祈り、明王の鏑矢(かぶらや)が西海に飛んで“神風”を起こし、日本勝利のきっかけとなったといわれたのも、まさにこの時だった。
 「ところが一遍にはそんな功名心は一切なかった。野心がない分、純粋で、だから逆に人気が出たんじゃないかなぁ」と高野さんはいう。
 実は一遍、鎌倉入りを拒否されている。「鎌倉入りの作法にて化益の有無をさだむべし。利益たゆべきならば、是を最後と思ふべき」と『一遍聖絵』は、もし失敗すれば死をも覚悟の鎌倉入りだったと伝えている。
 執権北条時宗が建長寺へ行く日に、一行は鎌倉入りしようとしたが、武士団に制止され、なおも進もうとして二回杖で打たれたという。
 「お前が人々を引き連れて歩いているのは名誉や利益のためだろう」という武士に、一遍は「法師にすべて要なし。ただ人に念仏すすむるばかりなり」と答えている。
 「鎌倉の外ならおとがめはない」と武士にいわれ、やってきたのが片瀬の地蔵堂だったのだ。
 ところが、一遍の意気、気迫に感じたか、武士、庶民、高僧らが続々片瀬に集まり、結縁を求めたのだ。一遍は地蔵堂に四カ月も滞在、踊り念仏をしている。
 道場には紫雲がたち、空からは花が降る不思議。疑う人に一遍は答えている。
 花のことは花に問え。紫雲のことは紫雲に問え。一遍知らず
 一遍の潔さがいい。           文  冨野治彦

 写真左上/マリンレジャーのメッカ、神奈川・湘南海岸。一夏で200万人が訪れるといい、一遍が来たころの面影はどこにもない
 写真右下/龍口寺のわきにたつ龍口明神社跡。かつて処刑場があり、一遍はこの神社へも訪れている=藤沢市片瀬        写真 鈴木健児
                                             (2003/06/11)