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   一遍  旅に生きる  伝法編
  二、 踊り念仏 生まれ変わる己れを体験 

 一遍一期の行儀となった踊り念仏。「法語集」などで一遍は「念は出離の障(さわ)りなり」「心は妄念なれば虚妄なり。頼むべからず」と、人間の「心」の動きを諸悪の根源と繰り返し強調している。
 ところが、何十人、何百人という大勢で合唱する名号は、すでに己れの名号ではない。仮に、己れが黙していても、堂々たる合唱は虚空に響く。(中略)己れを捨て、己れを超え、時々刻々、生まれ変わる己れを体験できる。この根源的な宗教的感動を称名に結び付けた点に一遍の独創があった
 と、作家、栗田勇さん(七三)は「一遍上人−旅の思索者」(新潮社)の中で書いている。

 ◆融通念仏の拠点たどる?
 一遍の発想の源流には、平安時代の天台僧で、天台声明中興の祖、良忍(りようにん)(一〇七二−一一三二年)の融通念仏があったといわれている。
 「中国など外国からの輸入ではなく、うちは弥陀直伝の教えです。国産第一号の仏教といえるかもしれない」と、融通念仏宗総本山、大念仏寺(大阪・平野区)の宗務総長、山田隆章さん(六〇)はいう。
 寺伝によると、良忍が隠遁地の比叡山の麓、大原・来迎院で、日々六万遍の念仏など常行三昧をしていると阿弥陀如来が十体の菩薩とともに出現した。
 一人(いちにん)は一切(いっさい)人なり 一切人は一人なり 一行(ぎょう)は一切行なり 一切行は一行なり…
 こんな偈(げ)を阿弥陀仏は良忍に伝授したという。
 一人は皆のために、皆は一人のために。百人が百遍念仏を唱えれば、お互いの念仏が融通、共鳴しあって百万遍になる、という考え方だ。
 「一人でいくらやってもダメなんで、他人からも力をもらわないと意味がない。それがやがては諸国遊行という形になっていくんです」と山田さん。
 後日談があって、ある日、良忍の夢枕に鞍馬寺の毘沙門天が現れ、「教えを広く勧め、苦海に沈む衆生を救うべし」と語った。良忍は念仏勧進を発願、宮中で融通念仏会を開いたところ、鳥羽上皇、中宮待賢門院らが率先して入会した。
 良忍が鞍馬寺へお礼に行くと再び毘沙門天が現れ、「あまりにいい教えなので、梵天、帝釈天のほか伊勢、熊野、春日など日本国中三千余座天神地祇八百万神にも結縁させた」と、神々らの名前を書き込んだ神名帳をみせたのだという。
 神仏習合を地でいくようなエピソードだ。一遍が布教しようとしたのはそんな教えだった。
 「ところが、一遍の時代は良忍以来の法灯が一時途絶えていた時代だった」と大念仏寺研究嘱託員で、元奈良文化女子短大教授、行(ゆき)昭一郎さん(七五)はいう。
 六代続いた後、寺勢が衰え、“空白の時代”は、一三二一年まで約百四十年続いたそうだ。ちなみに良忍が逝った翌年に法然が生まれている。
 「法灯は絶えても、念仏聖たちは良忍の縁起絵巻を持って全国へ散り、盛んに勧進を続けていた。組織化されてはいないが、他宗派にも深く浸透し、各寺は大念仏会をしばしば開いているんです」と、行さん。
 「融通念仏宗には、お寺や祠(ほこら)、シンパ(協力者)など聖が全国を回る拠点が各地にあって、一遍はどうもその後をたどっていたようなんです」と、栗田さんはいうのだ。 
             文  冨野治彦

 写真左上/融通念仏宗総本山、大念仏寺の「万部おねり」。本堂の外周に設けた舞台の上を菩薩に扮した僧らが行道、極楽浄土からの来迎場面を再現する=大阪市平野区
 写真右下/大念仏寺の本堂。昭和13年に再建された総ケヤキ造りで、東西50メートル、南北40メートル。大阪府内最大の木造建築物だ         写真 栗橋隆悦
                                             (2003/06/10)