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   一遍  旅に生きる  伝法編
   十、 神戸・真光寺 観音堂で51年の生涯閉じる
 
 ときにそよ風、ときに嵐。風のように日本列島を歩き続けた一遍が逝ったのは、正応二年(一二八九)八月二十三日。神戸市兵庫区の和田岬に近い観音堂(今の真光寺)で、五十一年の生涯を閉じている。がんだったようだ。
 境内の廟所には、二段積みの基壇の上に石造五輪塔(高さ約二・二メートル)。「阪神大震災で倒れたんやけどね、中から一遍さんの骨(こつ)が出てきた。備前焼の人間国宝、故藤原雄さんに新しく骨壺を作ってもらい、おさめました」と、檀家総代、澤田豊成さん(八三)はいう。
 いったん故郷の愛媛に帰った一遍が、死期を悟って最後の力をふりしぼり淡路島から、再び播州路へ入ったのは七月十八日。非僧非俗の教信(七八一−八六六年)が眠る加古川市の教信寺のほとりで臨終を迎えたかったらしい。

 ◆日本人の原点を生きた男
 教信は、奈良・興福寺の学僧だった。が、仲間が出世競争に目の色を変えているのにイヤ気がさし、出奔。街道の駅(うまや)付近に草庵を結び、妻帯して、旅人の荷物を運び、貧者らにわらじを与え、田植えの手伝いなどをしながら、念仏三昧の日々を送った。
 日照りに苦しむ農民をみて庵の近くに掘った池が今も残る「駅ケ池」。死後、自分の遺体は野犬の群れに食べさせたという。その草庵跡にできたのが教信寺。妻帯した親鸞も「教信のように生きたい」と敬慕してやまなかったという。
 が、一遍が明石に着くと和田岬から迎えの船がきたため、「いずくも利益(りやく)のためなれば、進退縁に任すべし」と加古川へは寄らず、観音堂へ。近くに平清盛が築いた大輪田泊。日宋貿易も行われ、活気あふれる貿易港だった。
 「観音堂はそんな町の人たちが作ったお堂。元々念仏が盛んなところで、一遍と競合関係にあった叡尊も布教にきている。一遍は断りきれなかったのではないか」と神戸大大学院助手、森田竜雄さん(三八)はいう。
 八月十日朝、一遍は書写山の僧に奈良・當麻寺でもらった称讃浄土経など少々の経文を渡した後、阿弥陀経を称えながら所持していた書籍など所持品をすべて焼き捨て、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と語っている。
 没後の事は、我が門弟におきては葬礼の儀式をととのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし。ただし、在家のもの結縁のこころざしをいたさんをば、いろふにおよばず
 が遺言だった。
 「遺体は獣に施せ、といいながら、自分を慕う者が葬式をしたいといえば、させとけ、といってるでしょ。そういうところが好きなの。人間としてとても豊かで大きいじゃないですか」と、瀬戸内寂聴さん(八一)。
 また、一遍は生前、ある僧に「念仏の悟りとは」と問われ、「生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも念仏ならずということなし」と答えている。
 「自然神に深く帰依し、旅を手段ではなく、自分の生き方としてとらえようとした。まさに日本人の原点を生きたような男だった」と作家、栗田勇さん(七三)。
 一遍の遊行は、足かけ十六年。鹿児島から岩手に及び、念仏札を渡したのは推定で二百五十万人。踊り念仏は、やがて富山の「風の盆」など盆踊りや出雲の阿国の歌舞伎に、観阿弥の能にと枝葉を広げた。南北朝時代になると時衆は戦場に従う陣僧となって、その見聞録をもとに『太平記』などの編集にも参加するなど、日本の文化や精神史に今も深い影響を与え続けている。                     文 冨野治彦

 写真左上/真光寺境内の一遍廟所に立つ石造五輪塔。寺名は二祖、他阿真教が伏見天皇に奏して拝受したという=神戸市兵庫区
 写真右下/念仏と弱者のために生涯を捧げた教信が眠る教信寺。近くには「駅ケ池」も残っている=加古川市野口     写真 大西正純
                                            (2003/06/20)