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   一遍  旅に生きる  伝法編
  一、 佐久盆地 天にも届け、念仏の大合唱 

 一遍が、時宗の代名詞ともいえる「踊り念仏」を最初に始めたのは、現在の長野県佐久市臼田町にあった武士の館(小田切の里)だった。
 国宝「一遍聖絵」を見ると、十数人の僧尼が庭で輪になって跳ね、手を振り、軽やかに踊っている。武士もいる。縁側の一遍は、手に持った食器の鉢を叩きながら、今にも庭へ降りていきそうだ。
 な〜むあ〜みだぁ な〜む あみだ〜ぶつ
 天にも届けとばかりに口々に唱える念仏の大合唱が画面から伝わってくるようだ。
 「最初に飛び出して踊ったのは超一だと思います。超一は一遍の思うことが全部わかった。愛していましたからね」と、作家、瀬戸内寂聴さん(八一)はいう。

 ◆共同で浄土を、日本的な空間作り
 超一は、一遍の“二の妻”だった尼僧。輪の中央で、同行の念仏房と一緒に笊(ざる)を持ち、ひときわ楽しげに踊っている。
 「一遍がここで踊ったら楽しいだろうな、と思ったらパッとわかって、飛び出したんだと思います。そしたら皆がそれにつれて踊りだしたんじゃないでしょうか」と瀬戸内さん。
 一遍の一行が小田切の里へ来たのは、弘安二年(一二七九)。一遍、四十一歳の冬だった。承久の乱で朝廷方に味方し、流されて当地で没した叔父、河野通末の墓があった。京都から四十八日かけて善光寺へ参詣した後、立ち寄ったらしい。
 北に浅間山の噴煙が見える。はるか南に八ケ岳連峰。その懐に抱かれ、はるばると広がる大平原の真ん中を千曲川がゆったりと流れている。空は高々と高い。
 小田切の里は千曲川の南にあり、「聖絵」には、通末の墓とみられる土まんじゅうが描かれている。
 念仏の大合唱や踊りは、平安時代の空也の頃からすでにあり、時宗の独創ではなかった。それがなぜ、一遍が踊り念仏の代表とまでいわれるようになったのか。
 「それが最大の謎」というのは、「一遍上人−旅の思索者」、最近では「最澄」(新潮社)などの著書がある作家、栗田勇さん(七三)だ。
 「一遍はこの場所、この時を待って初めて踊り念仏を始めた。最初は死者への供養の意味が強かったはず」と栗田さん。「踊るにつれ、集団の、宗教的な恍惚空間が生まれたのではないか。大勢で座を作り、個人を超えて共同でこの世に浄土を実現する。非常に日本的な空間ですよね」
 聖、をどりはじめ給ひけるに、道俗おほく集まりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀となれり
 と、「聖絵」は書いている。踊りの直前、近くの在家で歳末の別時念仏をした時には、瑞祥を示す紫雲が初めて立ち昇ったという。
 佐久市跡部地区の「跡部踊り念仏」は、当時の面影を今に伝える唯一の踊りとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。四月六日に、西方寺(浄土宗)で保存会の例会が開かれた。
 本堂の畳の上に卒塔婆を巡らせた四メートル四方の“道場”を作り、平均年齢七十歳近い十六人の婆さんたちが八人ずつ二回に分かれて踊った。
 ドンツク、ドンツクの太鼓のリズムに合せて婆さんたちは、カンカンカンと胸にかけた鉦をたたき、足を跳ね、首をふりふり「南無阿弥陀仏」を繰り返し合唱した。一踊り十五分。結構激しい“恍惚のリズム”だったが、あまり息が乱れてないのはさすがだった。
 「踊っていると夢中になって、無我の境地になれるんよ」と、メンバーの一人、伴野エミ子さん(七二)がいった。              文  冨野治彦

 写真左上/時宗総本山、清浄光寺大本堂の前にたつ宗祖、一遍の銅像。佐久で踊り念仏を始めたのは41歳のときだった=神奈川県藤沢市
 写真右下/太鼓にあわせて、胸の鉦を叩き、激しく足を跳ね、手を振って…。4月に行われた跡部踊り念仏=長野・佐久市の西方寺本堂       写真 鈴木健児
                                             (2003/06/09)