自分の学生時代って、どれ位覚えてるものでしょうか?。
私は高卒ですから、18歳までが学生だったのですが・・・あんまし細かくは覚えてなかったりします。
特に小学生の時の記憶なんて皆無ですね。
印象がないのか、単に古すぎて容量的に記憶しきれず、上書きされた可能性も否定できませんが。
とりあえず無目的に好き放題にやってたんだろうなぁとは思います。
習い事は一切してませんし。
只ひたすらテレビ見てるか、ゲームに明け暮れるかって感じだったと。
この頃に何かしら興味を持って始めてれば良かったんだろうなぁ~と、今更ながらに後悔してます。
小さい頃の教育に関しては親の所為とも言えなくはないですが、私の場合は全く興味を示さないどころが、頑なに拒否したそうなので・・・何もしなかったのは自分の所為です。
中学生の頃の記憶とセットで考えても、私はとにかく国語と美術と技術(小学校だと図画工作)が大嫌いでした。
文字を書く事すらも嫌いで、授業のノートも全然取らず、提出もせず。
読書感想文では本文と作者のあとがきの抜粋とを”サンドイッチ”して提出するという、自分の感想が全く織り込まれていない作文を通年繰り返し提出してましたし。
しかも内容は斜め読みで、理解してないし。
同じ本で数度感想文書いたり、最後の方は”去年の感想文を取って置いて丸写し”という快挙もしたような・・・(汗)。
そんな人間が、今このHPの管理運営をやってるんですよ(笑)。
人は変わるモンです。
絵を描くという行為に関しては自分は描けないし描く気も無かった上に、好きで描いてる人間をとことんバカにしてました。
自分に興味がない事に関しては出来なくて当たり前、出来る方がどうかしている、好きだなんて気がおかしいんじゃねぇの、と。
その当時、マンガ描いてた友人各位に対して、今の私は額が割れるまでに地べたに頭擦りつけて土下座せねばならないでしょう。
少なくとも、もし、同級生にこのHPを見られ、まっちゅうがあの”●●”だとバレた日には・・・考えただけでも恐ろしい・・・。
美術というジャンルでいうと彫刻とかもありましたし、焼き物もありましたし、版画もやりましたねぇ。
石膏なんて、アテもなく彫った所で何らかの形になる訳がないのですが、適当に彫っていき、段々石膏が単なる削りカスに変化していき・・・最後はどうしようもなくなってから「コレが芸術」と言い切って、自分でも分からないものをそのまま提出とかしてました。
焼き物も、それに限った事ではないのですがモチーフを精確にイメージ出来ない状態で粘土を練った所で何が出来ると?。
版画なんて、まず下書きが下手なんですが、それ以前に性格の問題がありまして線通りに彫ろうという気がない為に凄まじい仕上がりに。
技術(工作)も同じで、きっちり測って材料を切るとか、段取りを考えて効率よく順番を決めるとかいう事がイヤで、思いついたままに作業を進め、最後は形にすら成らず。
中学の時の技術の通知票で「1」がつきましたからねぇ。
普通、実技4教科(美術、技術、音楽、体育)は通知票に「1」を付ける必要はないらしく、コレがついたという事は「やる気すらない」と評価されたんでしょう。
そして、この事は担任から通知票を貰う時に聞かされたんですが、それはすなわち「興味なくても授業だから真面目に受けろ」という遠回しの指摘だったのでしょう。
ま、無視ですが
ここにこうして文章化すればする程、自分自身の学生時代がどんな生徒だったのかという事が露呈してしまいますが、事実です。
しかし、全てにおいてここまで投げやりだったわけではなく、単に興味がある事とない事に対する意欲の差があまりに激しすぎただけで、好きな事に対しては異様なまでの能力を発揮出来た・・・様です。
この事に関しては、軽い”高機能自閉症”の様な状態を想像して貰うと分かりやすいかと(高機能自閉症というモノを知らない方はご自分でググッて下さい^^;)。
あくまで軽いですよ。
そ~いえば親から聞いたのですが、私って2歳半まで一言も言葉を発しなかったそうです。
心配した親御様は、次々とドクターショッピングをしたそうですが、何処に行っても「言葉を話せないのではなく、話す気がない様子」という結果が出た為に治療も何もなかったそうな。
で、初めて話した時には、もう普通に会話が出来たそうな。
いわゆる”赤ちゃん言葉”という時期が存在せず、話し始めから発音がまともだったらしい。
医者の見立ては正しかったようで、話せるけど親と会話する意思がなかっただけらしいです・・・2歳半で(汗)。
そして、その頃には普通に箸が使えたというのは驚愕の事実です、私自身から見ても。
私の父親なんて60代にして未だに正しい箸の使い方が出来てないってのに(それはそれで問題有ると思いますが)、何で私はその歳で使えたんでしょうか?。
この辺から考えると決して不器用なわけではないんでしょうけど、興味があるかどうか、自分に必要かどうかではっきり線引きしてしまい、要らない事に関しては存在すら否定してしまう様な子供だったわけですよ。
最悪なマセガキですね
小学生時代は、素行的にも結構問題児だったらしいですし。
気に入らない事は我慢しなかったんですが、それが人に対しても同じで気に入らないヤツはぶっ飛ばすというスタンスでした。
ぶっ飛ばした相手の保護者が何度か家に抗議に来たり、学校に親が呼び出されたりした事を、うっっっっっっっっすらと記憶しております。
気にしてないから懲りる事もないし、記憶にもあんまし残っていないんですが・・・未だにその頃の事を母親に愚痴られます。
そんな問題児も中学生になると変わらざるをえない状況になってきまして、喧嘩ッ早いのは修まりました。
だって、腕力じゃ勝てなくなってきたんだもん(笑)。
暴れん坊将軍の様に天下無敵の最強王者ならともかく、帰宅部で鈍りまくった体力無しの私がいつまでも”気合い”だけで勝てるわけがなく。
その頃から少しずつ”協調性”という事を意識し始めました。
失敗からは必ず何かを学び取ろうとする転んでも只では起きない性格はこの頃からです。
中学生というと、丁度思春期の頃・・・はっきり言うと”さかりがつく”お年頃ですね。
多分、人生で一番”女”に興味があった頃だと思います。
自分を格好良く見せようという気は無かったんですが、それでもあちこちでカップルが出来はじめると、自分も彼女欲しいと思うわけで。
でも、あの頃のつき合うって、やるかどうか?ってだけな気もするんだけどなぁ~(笑)。
この辺は、同年代に今話してもかなり否定されてしまうんですが・・・。
そう?。
私は逃げも隠れも取り繕いもしません、 少なくとも私はそうだったぞぉ!と声を大にして言いましょう。
・・・当時はその意気だけが空回りして、実際にはちょっとおっぱい触っただけで照れて何も出来ないような純情君でしたけど(笑)。
って、自分で自分の事をそんな風に書くと、すっごいむず痒い(^^;)。
ま、そんなこんなで微妙に変化しながらも高校生になったわけです。
ここでかなり変わりましたね、私。
高校は1年生の間は必ず部活に入らなければならないので仕方なく選び渋々入ったハズの部活に、はまってしまったのがそのきっかけ。
活動していない部活に幽霊部員として名前だけ加入しておき、帰宅部同然になる事を望んでた筈なのに、気が付いたら2年になっても辞めるどころか高校生活は部活が全てに。
めっちゃ文化系の部活だったのですが、毎日毎日学校の閉門まで居る状態でした。
ちなみに私が居た学校は定時制があったので閉門は午後10時でした。
そんな時間まで、毎日学校に居たんですよ、土日も。
この辺は”物作り”に関する理解がなければ伝わらない部分なんですが・・・ホントに面白かったですよ。
毎日が充実してた様な気がします。
そして、ココで「モノを作る時に必要な事は段取りであって、小手先の器用さなんてモノは二の次で良い」事を知りました。
案外そんなモンなんですよ。
そしてこの3年間がなければ、私は通知票で「1」が付いた時のままだったと思います。
高校を卒業後、インターネットなるモノが流行だし、私も使い始めた訳ですが。
そこで知ったのが「同人」の世界ですね。
いわゆる”コミケ”に代表される、あの世界です。
今までの私は、イラストなんて興味もないし、文章書く事も苦手だったのですが、ココで高校時代の「やってみれば何とかなるかも?」という思いが。
それまで苦手だった「モノを作る」事が、逆に今はそれが得意分野になり仕事にもなってる訳で。
成功の前例があったからこそ、もしかするとイラストだの小説だのの同人活動ってヤツもやってみたら出来る様なるかも?とちょっとでも考えてしまったのが運の尽きだったと思います。
性格までは変わらないですからねぇ(汗)。
私の描くイラストの、雑さと内容の薄っぺらさは性格に因る所が大きいと思います。
私自身の、苦手分野の克服に失敗した最も身近な実例になってしまいつつ・・・。
あ、でも、こうやって文章に起こす事は出来る様になりました。
昔はコレもホントに苦手だったのですが、今はスラスラ書けますよ。
読書感想文だって、いくらでも書けちゃいます(笑)。
そんなこんなで
やってみなきゃ分からないからこそ、色々な分野に手出ししつつも、上手くいかなかったらそれなりに苦痛を感じつつ。
でも、克服できたときのあの達成感というか満足感は、忘れられない快感です。
・・・しかし、最近は「上手くいかないなぁ~」ってアタマの中で悶々と悩んでるだけで行動に起こせてません。
幸か不幸か「過去の栄光」ってモノがないので、変に過信する事も無いのですが。
でも、過去を自信として心の支えにしてる人も居ますし、実際にそういう人の方が強いよねぇ~。
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