富田 狸通 略年譜 |
明治三十四年二月一日、温泉郡川上村大字松瀬川五八番戸において、寺田次郎・タマの三男として出生、名 寿久。
大正八年三月、愛媛県立松山商業学校卒業。
大正十三年三月、明治大学政治学科卒業。
同年東京、愛国生命保険株式会社就職。
大正十五年一月三日、道後湯之町一五七三番地富田喜美子と結婚、十月二十五日入籍して富田家戸主となる。
同年松山、伊予鉄道電気株式会社に入社。
十一月九日長女ゑつ子出生。
十二月、松永鬼子坊氏につき句作に入る。
昭和三年五月、愛国生命保険株式会社の松山中央代理店を受託。
昭和五年二月十二日、二女しな子出生。
昭和七年、東洋城師の偏見、高慢、無礼、遜大と戦って、城師と渋柿が癪に障り、喧嘩して、渋柿への投句並びに購読を廃止。
昭和八年九月十四日、母富田トシ寂、彰徳院勝芳妙雲大姉。
昭和十年四月二十二日、三女もと子出生。
昭和十三年一月、道後湯の町町会議員に当選。
昭和十四年九月二日、四女つた子出生。
昭和十七年四月、配電統合令により電気事業分離、伊予鉄道株式会社入社。
昭和十九年四月二十七日、長女ゑつ子、松山高等女学校同窓会女子勤労挺身隊員として呉市阿賀町の呉海
軍工廠に出動。
昭和二十年七月五日、三女もと子(十一歳)、つた子(七歳)川上の寺田へ学童疎開。
同月、庶務課長拝命。
九月一日、川上の実母寺田タマ寂、七十九歳、宝照院唯真妙誉大姉。
同年、明大校友会愛媛県支部長となり、爾来二十数年後輩の指導にあたる。この間、明治大学評議員 ならびに本部幹事。
昭和二十四年五月六日、石鎚山麓、西条の奥で捕獲したという狸二匹を買い、飼育を始める。七月出産するも育たず、十一月雌狸が死ぬる。
十一月五日、長女ゑつ子、定由と結婚。
昭和二十五年八月十三日、孫勘司出生。
昭和二十六年十一月二十六日、孫房枝出生。
昭和三十一年三月、伊予鉄道株式会社を定年退職。嘱託となる。
五月、中予運送株式会社監査役就任。
六月、NHK松山放送局文芸部企画委員(邦楽担当)を委嘱される。
昭和三十三年三月十三日、二女しな子、加藤二郎と結婚。
五月二十日、道後温泉前に趣味の店「狸のれん」を開店。
同年、番茶会(毎月十八日が例会)を始める。
昭和三十六年二月一日、還暦を祝う。
昭和三十七年四月、松山坊っちゃん会を組織。
昭和三十九年十一月、趣味研究の狸に関し「たぬきざんまい」を発刊。
昭和四十年一月二十六日、四女つた子、大西敬止と結婚。
七月二十四日、川上寺田墓地に句碑建立、「香煙のゆかりに映へる苔の花 狸通」。
昭和四十一年十月二十九日、俳句会「いさには吟社」を結成、初句会を開く。
昭和四十四年一月、松山子規会副会長となる。
四月二十六日、妻喜美子急逝、七十歳。二十七日葬儀、彰善院喜心妙智大姉。
八月二十八日、順雅園に八豊明神の狸碑建立、除幕。
昭和四十六年十月二十四日、松山坊っちゃん会第三代会長となる。
昭和五十一年十月二日、道後緑台瀬越医院に入院。
十月十八日、県立松山中央病院に入院。
昭和五十二年四月二十四日、午前二時逝去。
四月二十六日、石手寺本堂において葬儀、顕寿院諦晋里通居士。
昭和五十二年七月十九日、子規会例会が石手寺で開かれ、「狸通さんを偲ぶ」座談会を行なう。
昭和五十二年十一月、NHKロビー展「狸通さんを偲ぶ」展覧会を開く。
昭和五十三年四月二十四日、遺稿集「狸のれんー俳画と句文-」を刊行。