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松山城史 伊予史談会  影浦 勉 著

・・・・・・・・・・・・・・事績に及ばなければならない。それについては拙稿「義農作兵衛伝」に譲り、ここでは省略しておく。

 定英逝去後の政権の変動

 松山藩が享保の大飢饉に遭遇したのは定英の治世で、家老の水野忠統(佶左衛門)と久松貞景(庄右衛門)らがその衝に当たり、奥平貞継(藤左衛門)は執政の主班となっていた。
 定英は藩内の凶荒の大きいのに驚き、享保一七 (一七三三) 年十二月末に目付の山内久元(与右衛門)の一行を松山へ帰し、領内の惨状と救済策の効果を調査させた。久元はひろく郡郷を巡視して、その実状を藩主に報告した。翌一八年四月十九日に定英は重病となったので、幕府から差扣を免ぜられたが、五月二十日ついに江戸藩邸で逝去した。そこで嗣子の走喬が、藩主の地位を継承した。
 ここに注意すべきは、定喬の襲職後わずかに十日目に、藩政に大変動が起り、当局者の更迭が断行せられたことであった。当時失意の状態にあった奥平貞国(久兵衛) が家老職に任ぜられ、二百人扶持を与えられたのに対し、奥乎貞継は享保大飢饉における藩政の不始末を理由として久万山に蟄居を命ぜられ、久松貞景および山内久元らは「役儀」を放され「閉門」を命ぜられた。さらに久元に対しては「悪心」をもって藩主の心を惑わしたとの罪名のもとに、味酒の長久寺で切腹を命ぜられた。
 なお久元の処刑の事情については明瞭を欠くが、上記の罪名に相当する事実を見出すことができない。したがって、この理由は単なる口実であって、恐らく硬骨漢の久元が注目の的となり、ついにこの政変の犠牲者となったのであろう。要するに、この政変は大飢饉当時の執政者であった貞継一派の失脚と、貞国の勢力の擡頭とを意味するものであった。前後の推移と久元の罪名の事実無根であったことなどから考えると、この政変は両派の政権争奪の現われであって、たまたま享保の凶荒と定英の逝去とがその契機となったのであろう。

 久万山農民騒動の原因

 このようにして、奥平貞国一派の権勢は次第に伸張し、やがて藩政を独占するかたちとなった。ところがこの政変後七年を経て、寛保元 (一七四一)年三月に久万山農民騒動の勃発を見ることになった。まずこの騒動の誘因について述べてみよう。

(1) 久万山地区は山岳地帯のため水田の面積が狭小であり、平時は天産物に恵まれることがすくなかった。したがって、一般農民の経済は良好でなかった。享保の大飢饉に続き、元文四(一七三九)年および寛保元年に松山藩領に大暴風があり、不作のために穀物類の価額が騰貴した。米作量のすくないこの地域では、銀納によるところが多かったので、貢租に対する農民の負担は重くなっていった。

(2) 米価の騰貴したのに村し、この地区の重要産物である茶の価額の下落したことが、さらに農民の生活を困難にさせた。それは茶が必須の換金作物であったことによる。

(3) またこの地区では楮が栽培せられ、製紙が行なわれていた。藩庁では農家の楮改めをしたが、楮供出の見積が過大なために、農家では強制買上げの際に不足を釆たし、他の地区から楮を買って、藩に供出しなければならなかった。そのため失費が多いうえに、紙漉については藩から定められた期限内に出荷しなければならないため、農事を捨ててかからなければならず、農民にとって過重の負担となった。

 騒動の発端

 これらの事情によって、この地区の農民の生活はますます困窮したので、寛保一年三月七日に有枝・大川村をはじめ十四か村の農民たちは、貢租の減額を嘆願しようとして、まず藩庁に出訴することとなった。ところが彼らが久米郡久米・石井村、浮穴郡井門村まで釆た時に代官関助太夫らが駈けつけて、説得につとめた。その結果、農民らはやむなく出訴を断念して、いちおう帰山した。
 そこで助大夫・奉行穂坂太郎左衛門らは久万に赴き、農民の帰村したのを確認したが、農民側は重ねて負担の過重を訴え、藩の善処を強硬に求めた。ところが、農民たちはこのままでは要求貫徹の不可能なのを自覚し、再び松山への出訴を計画したように考察される。藩庁では藩吏を派遣して鎮撫に当るとともに、貧窮者に対して救助米を配布してその状勢の緩和につとめた。

 大洲領への逃散

 当時の農民階級にとって、農村が極度に疲弊し、普通の方法によって生活難を打解する道を失った時に選ばれた手段は、農民騒動すなわち百姓一揆であった。江戸時代中期以降は農民騒動の頻発した時代であって、その進展の過程はいろいろの形態のもとに行なわれた。その消極的な反抗運動の代表的なものは逃散であった。逃散とは農民たちが安住の地を求め、郷里を捨てて逃亡を企てることをいい、これによって支配者に経済的精神的に大打撃を与える場合がすくなくなかった。典型的な逃散に発展したのが、久万山農民騒動であった。
 七月五日に土佐国に近い久主村の農民がまず蜂起し、下坂の村々(久万山南部地域)も合流して隣藩の大洲領に入った。八日に露峰村に進んだ時には、北坂(久万山の北部地区)・口坂(久万山の入口になる地区)と久万山・三坂地区の農民も参加した。十一日に一行は薄木村に達し、大洲藩の代官が帰村するよう説諭したが、これに耳を借さず、十三日に内ノ子村に進んだ。松山藩庁では郡奉行の吉岡平左衛門らを大洲藩に使者として派遣し、農民側に対しその嘆願を裁許するから帰村するよう伝達した。さらに久万に来ていた奉行の久松貞景も証札を示して確約する旨を主張したけれども、農民にはこれに応ずる模様も見出されなかった。十五日に農民たちは大洲城下に近い中村あたりまで入込んだが、その数は『坐右録』によると二千八四三名に及んだと記されている。

 大宝寺住職の斡旋

 農民たちはすすんで大洲藩主に窮状を訴え、その承諾がない以上は帰村できない旨を主張し、松山藩のいっさいの交渉に応じなかった。そのため助大夫は藩庁の慰撫策の効果のないのを自覚し、久万の大宝寺の住職斉秀に斡旋方を依頼した。これに対し斉秀はいったん辞退したが、助大夫の懇望によって理覚坊を大洲領に遣わせて説諭させた。しかし、全く無効なのを見た久松貞景らは、重ねて住職みずから直接に農民に折衝するよう懇願した。
 そこで斉秀は交渉の準備として、藩吏と農民の鎮撫策について協議を重ねた。さらに斉秀は貞景らに対して、

(1)農民側から提出される要求事項のうち、久万山地区全般にわたるものが三か条あれば、そのなかの二か条を容認すること、
(2)郡単位の要求もこれと同様に取扱うこと、
(3)村単位の要求が十か条あれば、そのうち五か条を容認すること、
(4)この騒動における主謀者を探索しないことなどの条件を提示して確認を求めた。

 貞景らはこれを承諾したので、七月二十四日に斉秀は大洲領の中村に赴き、農民たちに前記の条件を示して説得につとめた。そこで農民たちもようやく交渉に応じ、その後の折衝を斉秀に委任することとなった。やがて諸村の農民の間で要求書がつくられたが、それらを理覚坊がとりまとめて、貞景に提出した。
 この要求書は二十六か村のうち、連名のもの九か村であって、合計二十通に及んでいる。各村落の要望も個々にわたっていたが、各村落に共通する条項は

(1)年貫を減額して農民の負担を軽くすること、
(2)茶に対する課税を軽減するとともに、その年の未納額は翌年に徴収すること、
(3)差上米を免除すること、
(4)諸小物成すなわち雑税を軽減すること、
(5)紙漉借用銀米を免除し、紙漉に関する仕方を従前のとおりとすること、
(6)水旱損風の場合には検見にすること、
(7)農民に接する役人の減員をすること、
(8)役人に対する賄いを廃止すること、
(9)郡大割の負担を軽くすること、
(10)郡小割を廃止すること、
(11)庄屋借銀米の負担をしないこと、
(12)庄屋の帳書料の取立てをやめ、庄屋給米より支弁することなどであった。

 騒動の解決

 これよりさき、斉秀は農民への回答について、上席家老の水野忠統から直接に申し渡すよう要望していた。そこで忠統はみずから久万に赴き、貞景ら藩吏の立合いのもとに、法然寺の本堂で各村落の代表者に正式に回答した。
 その申し渡しは各村の要求に対してなされたものであるから、おのおの異なった条項にわたっている。つぎに各村落に共通した条項を、前記の要求書の順序に従って述べてみよう。

(1)年貢の減額は認めない、
(2)茶に対する課税の五割増は取りやめる、
(3)差上米は免除する、
(4)諸小物成の五割増を取りやめる、
(5)紙漉借用銀米は無利息の五ヶ年賦とし、紙楮仕法は希望に従い従前のとおりとする、
(6)水旱損風の場合は充分に吟味のうえで決定する、
(7)役人の減員と
(8)役人に対する賄方については今後の研究にまかせる、
(9)郡大割の負担軽減も吟味する、
(10)郡小割を免除する、
(11)庄屋の未進銀米の割掛および帳書料の割掛等をしないことなどであった。

 この申渡しによって知られるように、この決定条項は必しも農民側の要望の全部を容認したものではなかった。しかし、農民側は藩庁の妥協的な態度を納得したと見え、八月二日に帰村の行動を開始し、二名村・久万町村を経て、十三日におのおの郷里に帰着した。ここに松山藩にとって未曽有の大事件の逃散もようやく落着を見るに至った。
 これよりさきの七月二二日に、藩庁では幕府に対して領内の風雨による損毛が一万四千八十三石二斗余、不成熟五万四百八十六石二斗余、合計六万四千五百六十九石四斗余に及んだことを届け出た。

 奥平貞国一派の没落

 この間に注意すべきは、久万山農民騒動以来その権勢を失ないつつあった奥平貞国および穂坂太郎左衛門に対して、「出仕差留」の強硬な処分がとられたことであった。
 八月十五日に貞国は「不忠之至」として越智郡生名島に配流されることになった。彼の罪名は「不相応之饗応を受、酒宴遊興に長じ」さらに平素から「賄賂を取」り裁許正道からはずれ、民衆の困苦を無視してその恨を買い、ついに農民騒動をおこす結果となったと述べられている。これと同時に穂坂太郎左衛門は二神島へ、脇坂五郎右衛門が大下島へ配流に処せられたのをはじめとして、処罰されたものもすくなくなかった。これに反して享保十八年死罪となった山内久元の子孫は、藩庁から「亡父与右衛門先知百四十石被下置、馬廻組入被仰付」との命をうけた。そのほか不遇にあった藩士のなかに復職の好運に恵まれたものも多かった。
 要するにこの事変を契機として、貞国派は失脚し、かつて政局から排斥を受けた水野忠統・久松貞景らが政権を回復することになった。享保の大飢饉のころから存在した政治上の紛争は、ここにようやく落着を見た。大飢饉の後に反対党を退けて政局を独占した貞国も、凶荒の善後策に公正を欠き、ついに農民騒動の誘因をつくり、さらにそれによってみずからを滅亡の淵におとしいれた。
 貞国の末路をたどると、遠島後八年の寛延二(一七四九)年十月に、松山藩庁から派遣された目付の手によって殺害された。藩では目付に遠慮を命じたけれども、わずかに十三日後にこれを赦免したことによって、その裏面の状況を想見し得られる。
 なお、この政権争奪の経過は、誇張し小説化されて『伊予名草』・「松の山鏡」に松山騒動して発表された。そのうえに八百八狸の怪奇談さえ加えられ、いろいろの俗説を生んだが、さらに演劇化されてひろく人口に膾炙されるようになった。この俗説の素因をつくったのは、恐らく当時の神田あたりの講談師であろうと考えられる。