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   富田 狸通



 伊予松山騒動八百八狸のお話は、当地の義農作兵衛を生んだ享保十七年の大飢饉当時のことであります。

 当時松山十五万石の城主松平隠岐守は悪い家老の為に毒を盛られて中風の症状でありました。奸臣の首領は城代家老の奥平久兵衛という人物で、彼は城主の愛妾お紺に対する恋が破れた腹いせに、松山藩横領の大望を企て、ここにお定りのお家騒動がもち上がったというわけです。

 さてこの時、飛騨の高山三万八千石金森出雲守の家中で 猟師番後藤右源太の一子後藤小源太正信という浪人が漂然と松山へやって来ました。彼は幼名を伏太郎と申しまして、早くから母を失い、「野白(のじろ)」という名の飼大の乳で育てられたといわれ、犬のように暗い夜でもよく眼が見えるので、遂に夜間の剣法として自分で神免烏羽玉(しんめんうばたま)の剣術を創始した腕利きでした。松山へ来た彼は、間もなく家老の奥平久兵衛に見出されて松山藩に抱えられ、久万山の古岩屋に棲む神通力自在の古狸で、八百八匹の眷族を引具する隠神刑部狸(いぬがみぎょうぶだぬき)を退治する命令を受けたのでした。この狸退治は、今まで幾人もの武芸者が、刑部狸(ぎょうぶだぬき)の妖術にかゝ失敗しつづけて来たのでありましたが、かの後藤小源太は独自の夜間の剣法をもって、散々狸共をいためつけたのであります。この神免烏羽玉の剣術に恐れをなした刑部狸は、一日、大和尚に化身して後藤小源太を招き寄せ、己れの神通力を以て彼の一生を守護するからとの条件で、狸退治を思い止まらせてしまいました。


 以来暫らくは刑部狸は当国の守護神となって、その神通力は松山藩一帯に及び、五風十雨時に到り五穀豊穣天下泰平が続いたのでありました。そして小源太は、身に危険が迫った時には必ずこの歌を口ずさめよと養母である犬の「野白」から言い残された「人外の身の性来を引くからは心に心心して見よ」という呪文を唱えると、八百八狸の眷族が現われて色々不思議な神通力を発揮します。

 一方奥平久兵衛は、お家横領の企てを腹臣の後藤小源大ーー小源太はこの時すでに七百石の中老格になっていたーーに打ち明け、巧言を以て難なく彼をその連盟に引き入れました。この大役を引き受けた小源太は彼のうしろ楯である隠神刑部狸にこのことを話し、その協力を懇請したところ、元来正直ものゝ刑部狸は大いに驚いたが、小源太に対する約束と恩義に報いるため、彼の申出を受け遂にポンとその太鼓腹を叩いて決心のホゾを示し、彼等の悪事に加担することを約したのであります。奥平久兵衛がまだお家横領の企ての実行をためらっていた時、ちょうど松平家の祖正平院殿四品貞行(しょうへいいんでんしほんていぎょう)大居士の百回忌の法要が、山越の長久寺で催され、久兵衛はとうとう刑部狸の術策に陥ってしまいました。というのは祭壇にまつられてある大居士の位牌が狸の顔となってギョロギョロねめ廻すので、乱心した久兵衛はいきなりその位牌に斬り付けるという不忠不祥の大事態を惹き起こしてしまいました。

 以来久兵衛は毒を食わぱ皿までの例えの通り、悪企みの臍をかため、小源太の言を入れてここにいよいよ松山藩横領の策に着手しました。つまり彼も刑部狸の神通力に頼ったのであります。一方こういう悪玉に対して、藩主隠岐守の若殿で当時江戸詰めであった直太郎を擁立する忠臣組には、筆頭家老の松平主膳や長谷川織之丞等があり、中にも近習頭の山内与衛門はこの奸策について身を以て藩主隠岐守へ諌言したことから、遂に奸臣共の讒言にあい憤死しましたが、其亡霊は、松平家に伝わる「菊一文字(きくいちもんじ)」の名剣の威徳と相俟って、常に狸共の神通力と戦って主家を守るために、江戸と松山との間にあって色々の怪異を現わしたのであります。

 こゝでちょっと奥平久兵衛と道後温泉につながる話を申し上げます。というのは、道後の料理屋と温泉の湯女(ゆな)は、この久兵衛の進言によって許可されたのでありました。彼がこういうことを何故進言したかというと、それは、久兵衛一味が中風の藩主を葬るチャンスを得るために、藩主を道後の温泉に入浴させる手段として思いついたもので、久兵衛は妾のお紺と申し合わせて藩主を罐詰めにし、其別宅としてお茶屋を道後に構えさせた。これが今日の道後温泉の湯女(ゆな)と繁華街松ヶ枝町の前身であります。

 かゝるうちにも城下町では八百八狸の活躍が日に日に勢を増し、つぎつぎに怪異と流言が流布されていました。そのころ、江戸の浜町河岸に住む小野一刀流の看板を掲げた小野二郎右衛門の道場で、後藤小源太と知り合った芸州藩の剣士稲生(いのう)武太夫が、松山へやって来てさる良家の娘と懇意となりました。ところがその娘は実は刑部狸の眷族からの廻し者の狸であったので、武太夫は大いに怒って、それからのちは城下町を歩き廻って片っ端から狸退治を始めました。武大夫を味方にとり入れようとしたこの化け娘の手段は、みごと狸の方が失敗してしまったのでした。このことを聞きこんだ忠臣組は早速この浪人稲生武太夫を召し抱えて味方にしたので、騒動は一段と活発に進展したのであります。其後武大夫も狸のためにさんざん失敗をなめましたが、遂に日頃信仰する宇佐八幡大菩薩より授かった「神杖」を使って、とうとう隠神刑部狸の一味を九谷・久万山の奥深く追い詰めて退治したというのが、この松山騒動伊予八百八狸の大あらましであります。

 悪の旗頭奥平久兵衛の墓は、正岡子規と内藤嶋雪の埋髪塔のある市内末広町の古刹正宗寺内にあり、忠臣山内与衛門は、国鉄松山駅の西方西山部落に、山内神社として松山港の西の堅めの守護神として祀られています。なお、久万山の岩屋寺には、八百八狸を祀る狸塚というのが伝わっていますが、もとより史実ではありません。

 かの享保の大飢饉は徳川二百六十余年を通じてその災害が最も烈しかったものであり、その上この凶慌に際して松山藩の執った救済的治農対策は失敗に終わり、ついに一万二千人という多数の餓死者を出し、この対策の失敗のために当時の藩主であった松平定英は「差控(さしひかえ)」を命ぜられ、また、幕府より借入れた救済金の使途の不始末から責任者の家老奥平藤左衛門は久万山へ蟹居させられるに及び、たまたま久万山郷には有力な農民一揆が勃発して城下町へ押しかけるなど、これらの実説に基づいて、講談師田辺南竜が、伊予の狸に主材して狸の狸らしい思い付きで作りあげたのがこの話でありまして、狸は本来の正直さから後藤小源太の懇請を断り切れず、其恩義に感じてやむなく手伝いをした次第で、話の「盛(も)り」は、狸の神通力とそれを利用する夜目の利く剣士と忠臣の亡霊と名刀の威徳、そして不思議な「神杖」とをうまく取りまぜたところに面白味があります。

 狸ぱなしはいるいると腹の立たない他愛のないものがたくさんありますが、中でもちょっと聞き応えのあるものは、東京では昔千代田城の鬼伏せのために、神田の真ん中に建立された柳森神社の祭神で、通称を「おたぬきさん」で知られている代表的なのがあり、また、金山で有名な佐渡ヶ島には團三郎狸といって豪勢にも無利子無催促で金を貸してくれる不景気知らずの富豪狸があり、淡路島には芝居好きの世話役で親分肌の芝衛門狸が有名であります。また、四国には化け方においては天下一品で、日本狸族の総元締格の讃岐の八島禿狸は、今もなお屋島登山鉄道が広告宣伝のドル箱にしています。

 また、阿波には羅門光三郎主演の映画で名高い「狸合戦」のモデル狸の役衛門、金長狸があり、さて伊予には、映画エノケンの「八百八狸大暴れ」の八百八狸をはじめ、正岡子規の句になる「いのぼりや狸を祀る枯れ榎」の御本尊の八股のお袖狸、インテリ狸の荏原の金平狸、喜左衛門狸、小女郎狸等々、多狸済済でありますが、いずれ機を得て御紹介いたします。

  松山 の八百八狸、月おぼろ                      (「旅」)