JA5DLGの宿貸しマウス・ホームページ

  富田 狸通

伊予の銘狸列伝 明堂狸追録記


 雑誌「伊予春秋」第十二号誌上で当時の今治警察署特高主任だった仙波貢氏は「明堂狸撃滅記」と題してこう書いているーーその頃越智郡小西村字山内の小高い丘の頂上に重茂霊社という祠があり、そこの大榎(私は山桃の木と思っている)の洞穴にお袖狸が住みつき、祈願をこめるとどんな難病でも全快するというので物凄い参詣人が連日全国から押しかけて来た。このため大井駅から山内の大榎までの沿道には実に延々数百軒の店が出るという有様であった。よく調べて見ると胃腸の悪い人間などはその大榎をなで、その手で自分の患部をなでると一点赤い印がつく、そこへ灸をすえると忽ち病気は全快する。それで「お狸さんの一点灸という」と、まあこういうことで北は北海道、南は九州から善男善女がやって来るということがわかった。

 さて当時は淫祠邪教のもっとも取締りのきびしい時代で、これを放任するか、取締るかという問題がおきた。現地調査の意味で私が大井駅まで出かけて見ると海岸はまるで源平合戦で平家の大軍が押し寄せたかと思われるほどで、どの舟もどの舟も赤いのぼりを立て大井駅から山内までの沿道には、これまた百五十軒のバラックが建ち並んでいる。自動車の極めて少ない頃だったのに松山、今治からハイヤーの借切りといった連中が多く、土地のものは大井が今に讃岐の琴平さんと同じになるといっている有様であった。取締り問題は慎重に検討された 「淫祠邪教か」「いや淫祠邪教の類ではない」「しかし狸が祭神といい、それで病気が全快するというのは完全に迷信だ」「人心を惑すものだ」「然し信仰の自由という点は?」等々いろいろの意見が出たが私は逆にこれを公認すれば案外参詣者は無くなるのではないかと考え、小西村の境外仏堂として公認することに決めた、ニケ月もすると参詣人は減った。

 ところがこうしたうちに或中学校の先生が「明堂菩薩の由来記」なるものを頒布した。それによるとこのお狸さんは安政年間にも大流行し、時の代官が邪教なりと大弾圧を加えた。ところがその弾圧に反抗するが如く各地に疫病が大流行し遂にその大官はこの病気のため死亡してしまった。お狸さんを弾圧した天罰だ。

 と結んでいた。

 公認した裏話があるーーその頃の県の特高課長は松尾さん、社寺兵事課長が前の黒田松山市長だった。見せん、見せんというから見たがるのでその逆をついて「公認するから狸でも何んでも自由に拝め」というわけで 「八股狸明堂菩薩」として公認したのが効を奏して明堂狸景気を全滅することが出来た。かくて明堂のお狸さんは全国数十万の信者から見はなされたが、それでも一時このお狸さんに上る賽銭は毎日平均八百円を下らなかった。俸給平均五十円のころだ。流行とは恐るべきものである。(筆者は元警視、現在県交通安全協会専務理事、文中不要ケ所省略、文責)