富田 狸通
狸と八の因縁
腹つづみに次いで芽出度い狸の芸当は、畳める心を機に臨んで八畳敷にひろげる玄機のことである。倦まざる気力と百楽の長を貯えている狸の徳利は必ず丸の中に八の字を現わしたマルハチのしるしであり、この
のしるしこそは即ち狸の紋どころというべきものである。
狸と八の字は実に深縁不可分の狸縁がある。
このことについては私が昭和八年に「狸と八」という怪しげな狸論文を発表したところ、全国の狸愛好家から思わぬ拍手かっさいの大当りを得たことがあった。そこで狸の円転滑脱は単に剽軽して愛すべしとのみ左様に簡単に片付けられるものではない、という八と狸の因縁を考えてみたい。
そもそも狸は経本三十六禽形曼茶羅西方第八に狸産を有して、得意の八畳敷の外に必ず
の徳利をブラ提げているわけである。わが伊予地では享保年間に城主松平隠岐守(おきのかみ)を向うに廻して神免鳥羽玉(しんめんうばたま)の剣術を創案した一刀流の剣士、後藤小源太正信のうしろ楯となり松山十五万石のお家騒動を巻き起した「松山騒動」の立役者の八百八狸は佐渡ケ島の二ッ岩の団三郎狸と淡路の芝衛門狸、それから讃岐は八島の八毛(はげ)狸と共に日本狸界の大御所となっていることは有名な伝説である。
また昭和十二、三年項に伊予のお狸列車として国鉄の予讃線大井駅(今の大西町地域)を一躍高松、松山両駅をしのぐ大駅として狸景気狂騒曲を奏し、中国筋は勿論九州阪神遠くは北海道方面からの信仰を集めて科学万能の時代に魔可不可思議の霊験を現わした「明堂菩薩(みょうどうぼさっ)」の御本体は今もなお、松山市庁舎前の国定重要史蹟の外濠堤に鎮座まします八股さん、或いはお袖さんの愛称で親しまれている「八股榎大明神」であ ったということになっている。
また讃岐の八島寺に住んで寿永の乱の八島源平合戦の模様を住職交替の時に障子の影絵に写して、鉦、太鼓、矢叫びの鳴りもの入りで化けて見せるという八毛狸は法名を「小八大明神」といい、有名狸の名は八の字が付くものが多い。その他、源八、八兵衛,八蔵、八助、八九郎等の八の字を付けて呼ばれている小もの狸や豆狸は全国いたるところに住んでいる。
八は狸の名前ばかりでなく狸器狸像を作る名工の名前にも道八、豆八、八八亭などの八の字の因縁をかつぐものが多い。また名曲長唄の「たぬき」を唄わすと日本一といわれた有名な師匠に仙八という芸名の人があった。
そこで、この八という字の字意について考えてみると狸窟があるのである。一二三四五六・・・と数える基本数字の中で最も勢いの強い数は八であって、八は発達、発展性がある。
即ち九は苦に通じ、十は満つる、欠ぐるの憂いがあって、八の字がもつハツラツとした威勢のいいところでは手八丁口八丁、八ッ当りに八八鳴る、元気な八丁櫓に長い土手八丁、三艘飛んでも義経の八艘飛びといい、寄せ手の大軍は八千余騎、侵略国と烙印された日本海軍が無敵を誇った威力は八八艦隊であり、昔の八幡船から出発したものである。
遠く我が朝には八百よろずの神々が大八島の国を肇め大八尋殿に八咫の鏡を飾り武軍長久を八幡大菩薩にまか せて大いに八の縁起をかついだものであったが、昭和十六年十二月八日を期して乗り出した大東亜戦争は、昔カチカチ山の泥衛門狸が土船に乗って漕ぎ出して失敗したように八紘一宇の呪文は当らぬ八卦であった。このことは「うっかりと乗ったは狸不了見」また高橋泥舟は得意の狂歌を以て「世の中はとかく狸の泥の舟、漕ぎ出さぬがカチカチの山」と人生不動の処生訓でいましめている通りであった。しかし大東亜戦争の結果、手も足も出なくなった日本も、八方塞りは関運のもとの例えの通り、平和日本は戦争を放棄して政治、経済、産業、文化、教に「たぬき」の七変八化けの潤いを狸用して狸、他抜き、大貫きして今日の再生を誓ったのである。
以上の如く八の末広がりと八畳敷に延びる、包む大金の縁起につながる八の字、また狸の七変八化け転身自任の生気ハツラツたる動的の八の字を思虜禅味親愛の形の○に包んだ
マルハチの円満無礙碾の一体身、即ちGが狸であり、狸が
で人生は常に内には八の動性を蔵し、外には丸の静性を現わしてこそ円満なる人格が得られるものということを教えているのが狸の紋どころである。
なお狸の化け初めは紀元一二八八年(日本書記による推古天皇の三十五年)であることなど、どこまでも不思議な八の狸縁である。