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   富田 狸通
劇場と狸
 狸が罪のないもの真似をして喜ぶというのは陽気な習性から伝説化された場合が多い。即ち腹つづみを打ったり、汽車に化けたり、茶釜になって踊ったりすることとなる。
 古い劇場の暗い奈落にはよく狸が住んでいて芝居の真似をすると言われている。松山市では三番町の今の国際劇場が国伎座と言われていた頃、「黒さん」という真黒な狸が住んでいて奈落の隅には小祠があって劇場主は毎日お供物をあげて祀っていた。

 この「黒さん」は別にいたずらはしないで国伎座にかかる芝居を見るのが一番の楽しみであった。誰いうとなく芝居の初日には必ず「黒さん」に大入満員を祈願する例となっていた。それを疑ったり、或いはうっかりお供物を忘れると客の入りが悪かったり、舞台上で役者がドジルことがあったりして「黒さん」のお崇りを受けることになっていた。現在はパチンコ店になっている大街道の元新栄座にもこれに似たような狸ぱなしがあって両劇場の狸が、観客の奪い合いをした話もよくあったが狸の名前は失念した。

 また宇和島市の融通座の奈落に棲んでいて現在は同劇場の横手に小さな祠で祀られている「おさん狸」は南予地方の有名な伝説になっている。

 宇和島市の追手通り界隈は明治初年まで松並木で城の追手門前の馬場であった。「おさん」はこの大松の洞穴に巣食うていたが時代とともに松並木は伐採されてその跡に建てられた融通座の奈落に落ちつくことになったのである。初めのほどは融通座にもいろいろの異変が起り役者が怪我をしたり、小道具が失せたりするので遂に同座の守護神として祀られてお供物にありつけたわけである。

 この「おさん狸」が大松の古巣を追われてまだ町中をウロウロしていた頃の話にこんなことがあった。古いのれんの「米熊」という鰻屋の婆さんが或年の暮に急に熱を出してうなり出したので、祈祷師を呼んで占ってみると婆さんは床の上へ起き直って「わしはおさん狸じゃ、夷子町の四ツ角でここの婆がうずんでいた大きなムロブタ(餅を入れる箱)の角がわしの頭に当ってコブが出来て痛うてたまらん、コブ代に赤飯を炊いて喰わせ、そんならいんでやる」としゃべり立てるので、その通りしてやったら婆さんの病気はケロリと癒ったという。

 劇場の奈落に起った怪異を一つ。羅門光三郎といえば一と頃の映画界でたいした存在であったが、今は過去の人気となって、たまに老け役に出演するくらいであるが話は大正末期のことである。彼が花園薫の一座に加わって旅廻わりの芝居をやっていた頃、阿波の徳島の稲荷座で二枚目の役を受けもち、座長と二人で舞台のスッポン(狐忠信や仁木弾正などが舞台の下からせり上がって来る時の穴のこと)の上で芝居の台本を読み合って稽古していた時、すいさしの巻煙草の灰をはたいて何気なく舞台の床の上に落した。途端にスツポンの座板が外れてアッという間に彼の身体は真っ暗らな奈落に落ち込んだ、そして頭を打って気絶してしまったのである。

 初日の興行を控えて楽屋中は大騒ぎとなった。医者を呼んで頭の傷口を縫い、とも角も手当をしたが初日の出演は出来ぬほどの怪我をした。心配してかけつけた座主は第一声に「舞台で煙草をのんだのではないか」と訊いた。そして座主が指さす鴨居の上を見ると、

 一、牛肉を喰ふべからず

 一、煙草の吸がらを捨てるべからず

 一、舞台上で唾すべからず

、と三カ条の禁札が貼りつけてあった。これが稲荷座の奈落に棲んでいるお狸さんの禁制である。禁制に違反すると必ず災難があると座主はつけ加えて言った。

 これを聞いた一座の若手俳優は「狸もヘチマもあるものか」とばかり血気盛んな連中はその夜舞台裏の楽屋で牛鍋をつついて気勢をあげたのである。それまでは何の異変もなかったが、真夜中頃になると奈落の底でひどく苦しむうめき声が聞えるので、その中の一人がローソクを灯して酔眼もうろう、声を頼りに行ってみると、奈落の隅に祀られてあるお狸さんの祠の前で、牛肉を買いに行った男が油汗をかいて苦しんいた。

 その翌日からバッタリと客足も減ったので驚いた座主は神主を呼んで盛大なお祓いをあげてお狸さんに謝って、やっとのことで興行をつゞけたという。

 こんな因縁もあってか、のちに昭和十四年大映が寿々喜多呂九平の監督で羅門光三郎主演の「阿波の狸合戦」を映画化した時は狸につままれたような思わぬ大評判で、映画会社は八畳敷に大儲けしたということである。
羅門光三郎主演の「阿波の狸合戦」
阿波の国の民話に取材した狸映画で、「山椒大夫」の八尋不二のオリジナル脚本を「黒帯嵐」の加戸敏が監督している。撮影も「黒帯嵐」の武田千吉郎、出演者は「妻恋黒田節」の黒川弥太郎、南條新太郎、赤坂小梅、「番町皿屋敷 お菊と播磨」の阿井三千子、羅門光三郎、「怪盗まだら蜘蛛」でデビューした三田登喜子などである。
阿波祭の夜、事業不振で夜逃げをしようとしていた紺屋の大和屋茂右衛門は娘お花の命乞いで一匹の狸を助けた。救われた狸の金長は丁稚の亀吉に乗り移って、忽ち大和屋の景気を盛りかえした。--ここは波を隔てた小松島の狸の世界。変化の奥儀に達した金長は、司家津田の六右衛門に正一位を貰うべく藤の木寺の鷹を供に出掛けた。六右衛門の娘鹿の子姫は金長に想いを寄せるが、川島作右衛門は嫉妬の炎を燃やし、言い寄る所を鷹に阻止された。鷹は姫から手渡された手紙を開ける。自分だと思いのほか親分金長へのラヴ・レターだったのでペシャンコになる。とに角ランデヴーの場所へ出掛けた金長は命の恩人大和屋へ恩返しする迄待ってくれと姫に打明けた。一方、作右衛門は六右衛門を欺いて、金長こそ津田家に伝わる魍魎の一巻を狙う目的で姫を誘惑する曲者だと焚きつけた。殺到する津田方の軍勢に金長は鰯に化けて海辺から危うく逃げ帰ったが、鷹は殺された。金長の子分達は大憤激、軍師新八は身内に廻状をまわして殴り込みの仕度を始めた。鹿の子姫は六右衛門に仲直りをすすめて自害したが 、着々と軍備を進めている両軍にとって、もはや戦端を開くよりほかなった。いよいよ狸同志化し合いの珍妙な決戦が開かれる。が、その時屋島の禿狸が現われ仲裁した。今日は人間共が踊り狂う阿波祭の当日、狸も負けずに踊ろうではないかと、魍魎の一巻を拡げると忽ち起る三味の音。一同は今迄の喧嘩を忘れて、陽気に踊り出した。
羅門光三郎(岩井憲次)
明治34年10月10日生まれ。大阪市西成区今宮町出身。
大阪市鰻谷育英高卒
大正10年、新派成美団で舞台を踏む。昭和2年東亜キネマ入社。。原駒子と共に富国映画を起すがまもなく解散。のち宝塚キネマに入社。豪勇非凡の剣士として多くの剣戟ファンに支持された。羅門はラモン・ナヴァロから、光三郎は師匠の光岡竜三郎から貰いうけた芸名。