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  富田 狸通

伊予の銘狸列伝  喜左衛門狸の巻

 壬生川町の北条にある大気味神社は三百年の社歴を有し、その眷族が有名な喜左衛門である。この喜左衛門狸は昔土地の長福寺の住職南明和尚に師事して和尚の行くところ必ず喜左衛門現わる。というわけで、喜左衛門が碁に強かったのも南明和尚に教えをうけたからである。

 和尚と碁盤を囲んで対戦する時、勝負に夢中になるとデンチの下からよく尻尾を出すことがあるので「喜左!また出たぞッ」と和尚にたしなめられるとあわてて尻尾をかくすというあんばいで、南明和尚には心から気を許して師事していた。

 喜左衛門の棲み家は大気味神社の楠の大木の根本で、その楠の木を囲うように大気味神社に劣らぬ大きな社殿が建てられ「喜の宮さん」といって祀られている。ここの宮司は矢野さんといい、先代の稜威雄さん(号、芦廼舎または義晶)から喜の宮さんに関するいろいろの話を聞かされたものである。

 稜威雄さんの先代は、よく喜左衛門を使って独りでお社の生垣を結ったということ。つまり生垣の内側から縄を突っこんで「喜左、いくぞ」というと、その縄が垣の外側からかえって来る。又「喜左、いくぞ」といって出すと縄の端がかえってくるというわけで、独りで生垣の修理が出来たというから面白い話である。

 又、狸が戦争に出陣したという伝説はたくさんあるが、この喜左衛門も日露の戦いには出征して大いに日本軍を助けたということになっている。まだ読んだことはないが敵将クロバトキンの手記になる「赤い服の兵隊」という本の中にーー日本軍の中には時々赤い服を着た兵隊が現われて、この兵隊は幾ら射撃しても一向平気で前進してこの兵隊を狙っていると目がくらんで見えなくなる。赤い服には○の中に喜のしるしが付いていたーーと書いてあるそうである。喜左衛門は小豆に化けて満洲の曠野に渡り上陸するとすぐ豆を撒くようにパラパラパラと全軍に配置したという。

 喜左衛門の「喜の宮さん」は昔から農家の守護神として県下に広範な信仰を集めている。喜左衛門は暇さえあれば田畠に出かけて蝗や稲の害虫を捕えるというので夏の喜の宮祭りに詣ると必ず喜の宮さんの火縄を買って帰ってその火縄を田圃の中で振り廻すと稲の虫が死滅するまじないになっている。

 喜左衛門は腹つづみよりも踊りが好きで、上手なので豊年盆踊りの時には必ず喜左衛門は踊りの輪に加わって踊っているのだと伝えられている。今でも盆踊りの晩には「もういのや(もう帰ろうか)」というと、きっと帰り道で異変があるので夜が更けると踊り子はみなだまって散会するという習慣になっている。それほど踊りが好きな狸である。

 因に大気味神社に伝わる宝永二年七月十四日鎮座記念吉例盆踊りの豊年囃唄を見ると、

  (ツケ)情のないことぞーヲヤのーヲヤ宝永ヨー

○今年しゃ豊年いも豆さへもそれにお米の価は安い ナサケノーナイコトゾラヤノーヲ、宝永ヨー

○今年しゃ豊年俵の山よ何を見引のその小言

〇春の花見て踊るはコケ(馬鹿)よ稲の花見てそれ踊れ

○出来た四五石三等二等叩け狸のはらつゞみ

○うんかしん虫稲熱(いもち)もつかず、つくは尻餅いのこ餅

○舞えよ唄えよ踊れよはやせ月(杯)は十四の宵(酔)心地

○いのと云はずによんがのよし踊れ、忍び姿のうす化粧

○踊るおどるよアノしなやかに踊る姿の主や誰

       ーー◇ーー

  (境内の藤之御前社由来かえ唄)

○伊予の北条にゃよい娘は出来な、よい娘出来たらくち な責め

○伊予の北条もよい娘は出来る、よい娘出来たぞくちゃ

 (縁談)ないか

 喜左衛門は大気味神社のお使い狸といわれるほどあって、家主の大気味神社のためには身命をかけて奉仕したものである。

 或る時代に大気味神社の荒廃を見かねて神殿の屋根瓦の寄進を思い立った喜左衛門は師匠の南明和尚の名をかりで、そのお使いと称して伊予瓦の産地である菊間町の大きな瓦屋へ一千枚の瓦を注文して請求に出かけた時、窯の前でウトウトしているうちに、つい八畳敷を広げて尻尾を出したところを見付けられて窯の中で焼き殺されたというあわれな最後になっているが、喜左衛門の眷族は二十三匹で今もなお連綿としてその優秀な毛並みを保っていると伝えられている。

 戦争も末期の昭和十九年の暮れのこと、甘党であった矢野宮司から、ぜんざいをご馳走するからという案内をうけて伍健さんと二人で「喜の宮さん」へお詣りをしたことがあった。当時は砂糖や小豆は薬にしようにも手に入らぬ物資欠乏で半信半疑の全く狸にだまされる気持で出かけた。ところが矢野さんは「ありがたいことに、内の喜左には頭が下りまサィ、明日はぜんざいが食いたいなと思って拝むと、コレコノ通りちゃんと三宝の上に小豆と砂糖が盛ってあるんですけん」と真顔になって喜左の霊験を一くさり話された。ためしにその晩も神前に空の三宝を置いて拍手を打って祈願すると翌朝にはまた一盛りの白砂糖が上がっていたので伍健さんも驚いて「人の名で呼ばれる狸あなどれず」の一句を吐いて喜左衛門の不思議を讃えた。

 この裏にはどんな手法があろうとも、この不思議を信ずることは楽しく美しい思いがしたのである。

 また壬生川町には古くから喜左衛門の霊感によって製造している「狸饅頭」の店がある。喜左を信頼し切っている矢野さんは「狸饅頭」の繁昌を祈って矢野さんが秘蔵していた備前焼の狸、それは上ミ下モを着けた神々しい二十a位の狸像を店主の近藤さんに贈呈した当時の話であるが、近藤さんはその狸像を大切にして硝子張りの陳列棚に飾って店の看板狸にしていた。ところが不思議なことには或る朝その狸像の足許に小砂が散らばっているので清潔な饅頭を入れてある硝子棚にそんな筈はないと思ったが、それが毎朝の如く続くので矢野さんに伺ったところ、矢野さんは「狸も毎晩散歩に出るのだろう、そんなことはちっとも不思議じゃない」という。この不思議でない出来事をうす気味悪く思い出した近藤さんは、とうとうその狸像を改めて「喜の宮さん」へ奉納したのであった。勿論私もその狸像を見せてもらったが、見るからに曰付きのしろもののようで何か憑かれる感じの狸像であった。