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  富田 狸通

伊予の狸文献

 狸ぱなしの多くは伝説や口伝であるから、時代によってその筋や内容に変化があって面白い。実説として松山藩に残る狸の記録に「松山叢談」に上坂一学咄というのがある。

 その咄の大要は・・・寛文五年(約三百年前)四月朔日の朝(今で言えば四月馬鹿と言われるかも知れんが)松山城の西方、味酒の里(当時は酒造りの町で、現在伊予鉄道会社の古町駅のあたり)にあった味酒大明神の裏の広っ原で鼓や太鼓に合わせて怪しき踊りを催すもののあり、それも一町位を隔てた遠くより見れば、その数は男女合わせて六十名ばかりの総員で踊っているが、近くに寄って見ると、その一隊の姿は霞の如く消え失せるというので見物人は黒山をなして騒いだ。

 このことが大評判となって遂にお城に闘えたので、城主は上坂一学に命じて厳しく検分させたところ、怪しき踊りの面々は堅縞の布子を着て、酒樽らしきものを叩いているが人間ではなく、狸のしわざであると判明したので、庶民の見物一切相かなわずと布令を出して見物することを差止めたところ、この不思議な狸踊りはその後四、五日も続いたが、あとは音沙汰絶えたりというのである。狸も見物人が無くては踊る張り合いも抜けたものかも知れんが、とも角もこの記録は享保の大飢饉よりも八十年ほど前のことであるから、八百八狸の講談は、この一学咄にも多少のヒントを得て出来たのかも知れん。

 今一つ柳原多美雄氏の話にーー文政年間(百三〇年程前)に小唐人町の染物屋で安兵衛というものの息子、信次郎が杉谷町から帰る途中、毘沙門坂を通ると、かねて想思であるお露という娘に出逢った。二人は手を取って道後の温泉へ行ったが、翌日になっても帰らぬので家では大騒ぎとなり、近所の者と手を分けて探していたところ、二人は砂土手の池で混浴していたという。このことが町奉行の知るところとなり「その方は毘沙門狸にだまされて道後の湯へ行くと称して近所を騒がしたろことは不届きである、依って徘徊止め申付く」 (しばらく外出止めのこと)また、お露の方も「親の訓育よろしからざる罪により徘徊止め申付く」と毘沙門狸のために、それぞれ処罰をうけたということである。この記録の本の名は聞き洩した。