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西岡 千頭 の純潔論
愛媛キャンパス新聞会 年6回20日発行 (1,4,6,9,11,12月) TEL 089-926-7399 FAX 089-924-6596
愛媛キャンパス 愛大50周年 記念号 まだまだ若者!(げんえき) がんばるOB編
西岡 千頭 の純潔論




いのちに輝く愛と性 〜価値と目的の人生を〜
西岡 千頭 略歴

昭和17年 県師範学校本科第一部卒業 
日本天文学会特別会員 
国立大洲青年の家講師 
愛媛県生涯学習推進講師
 すばる星空友の会会長

去る二月二十八日、伊予鉄横川原線石手川公園駅の南側のグランドにおいて、ピュア・ラブ・アライアンス・ジャパン松山大会(4面に関連記事)が行われた。第一回大会実行委員長として活躍された西岡千頭氏のあいさつの全文を掲載する。

何のために勉強すべきか

紅の  梅散るなへに  ふるさとに土筆摘みにし  春し思ほゆ

 これは正岡子規の歌ですが、今や道後平野にも、万物の命あふれる春が訪れました。ここに集まれる皆さんは、まさに青春の真只中にあり、生命躍動する時であります。その青春の真只中に、「生命とは何か、愛とは何か」ということについて考えるために集まっていることは、まことに頼もしい限りであります。

 私は、かつて教職にあったころ、中学校の三年生の担任をした第一日の第一時間目に、「皆さんは何のために勉強するのか。八年間何のために勉強したか」と聞きました。「いい高等学校にはいるためです」「では、いい高校に入るのは、何のためにか?」「いい大学にはいるためです」「何のために?」「いい会社に就職するためです」さらに「何のために?」と聞くと、「月給をたくさんくれるから」と答えました。その時ある生徒が「先生は何のために勉強されましたか」と質問してきたので、私ほここぞとばかり「素晴らしい嫁さんをもらおうと思って勉強したのだ」と答えました。「素晴らしい女性に巡り会う、素晴らしい男性に巡り会う、そのことなくして何の人生があるか。夫婦が互いに愛し合って温かい家庭を築く時、そこから豊かな人生が始まるのだ」こういう話をはじめると、子供たちは真剣に聞いてくれました。

避妊教育はアメリカで失敗

 今や春爛漫、愛の季節でありますが、本当の愛や本当の恋愛が行われているだろうかと考えると、まことに遺憾の限りであります。今や全国的に性的遊戯が横行し、十代の妊娠が続発しています。アメリカにおいては次々と性病が蔓延し、十代の妊娠が続発しています。そこで政府があわてて性教育を実施しましたが、その性教育とは避妊教育であり、性病予防の教育でありました。避妊具を配り、避妊薬を奨励したのです。ところがますます性病は蔓延し、ますます十代の妊娠は増えていったのであります。
 これは重大な問題提起であります。一体、愛の本質は何か、本当の性とは何か、家庭とは何か、その本質を考えざるをえません。今日、日本においてはまさに性の遊戯が横行し、それがエスカレートして援助交際という名の下に、自らの肉体を売る売春が横行しています。
 さらに、日本は法治国家でありながら、その中に無法地帯があります。それは小学校と中学校です。日本の将来を担う子供たちがこのようななところで育っているとは、何という悲惨なことでありましょうか。心の荒廃した子供たちは、ことごとく崩壊した家庭に生まれ育っているのであります。夫婦の円満な家庭には決してそのような子供は生まれません。夫婦が仲が悪い、これは本当の愛を中心としない、いい加減な結婚をしているからであります。今や、日本はまさに亡国への道を歩んでおります。世界の歴史の中で偉大なる民族や帝国が滅亡していきましたが、それらは外国の軍隊によって滅ぼされたのではなく、ことごとく内部的崩壊、すなわち倫理の崩壊であり、特に性道徳の崩壊によって淑亡して行きました。

恐るべきは性道徳の崩壊

 性的遊戯が蔓延していくところには、必ず性病が流行します。性病はまさに悲惨であって、それは個人にとどまらず、子孫に影響します。生まれてくる子供は哀れなもので、知的障害や身体的障害など、幾多の障害が起こります。さらに、家庭崩壊によって子供たちの精神までむしばまれていくのであります。まさに悲惨の極みといえましょう。大いなる民族の滅亡はまさにこのような性倫理の崩壊と混乱から起こってきました。
こういう観点からすれば、この日本も間違いなく滅亡していくでありましょう。このままでは大変であります。

若者の「自由」とは「他由」

 このようなことを考えるとき、本当の愛とは一体何でしょうか。「私が私の体を自由に扱って何の文句があるか。私の自由ではないか」などというが、そもそも「自由」とは何でありましょうか。「自由」とは「自らによる」と書きます。つまり、自分自身を主体として、独立した価値のある自分を確立する、すなわちアイデンティティを確立することが「自由」なのであります。したがって、決して自分の体を好き勝手に扱って良いということではないのであります。 現代の多くの若者は「自由」ではなく、「誰々もするから」というように「他由」になっています。一体お前は何なのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、一体自分は何なのか、ということを考えてみなけれはなりません。

自己確立が学問の本質

 中国の偉大なる禅僧に瑞巌彦(ずいがんげん)和尚という人がいましたが、毎朝起きると、玄関(寺の門)で「主人公!」「お−!」「お前がお前の主人であるということを忘れるな!人にだまされてそれについていくな!わかったか!」「お−!」と自分で自分を戒めていました。
 また、日本の鎌倉時代に道元禅師という高僧がいましたが、その方が、「仏道を習うとは、自己を習うなり」といい、人生において自分を知るということが本質的なことであり、したがって学問の本質は自らが自らになるということであると説いています。
 私の名前は「千頭(ちかみ)」と書きますが、おそらく「千人の頭になれ」という思いと願いを込めて親がつけてくれたありがたい名前であると思います。しかし千人の頭などにはなれませんでしたが、私が今なお求めているものは、千人の頭になることではなくて、私自身の頭になること、自己自らを確立することであります。
 本当の生き甲斐とは己が己になりきる、アイデンティティを確立すること、そこに人生の目的があり、意義があります。
 お釈迦様が「天上天下唯我独尊」(天地の中で私が一番尊い)と宣言されましたが、「私という人間はかけがえのない天地にただ一人の存在である」ということであり、これは比較を絶した他と比べて優劣とか上下のない、それぞれ独自の価値と目的を持って生まれてきたものであるということを宣言したものであります。それが仏教の本質です。
 人間は誰でも、その人でなけれはならない使命と目的を持って生まれてきたのです。いい高校とか悪い高校とかいう比較などは、人生において何の影響も、何の価値もありません。それぞれが自己を確立することこそ、本当の人生の歩むべき道であり、学問の本質なのであります。

学校の崩壊は家庭崩壊から

 そのように自己を確立した男性と女性が信頼と尊敬によって結ばれるとき、愛に満ちた家庭が生まれてくるのであります。今、日本にはハウスはあるがホームはない。家屋はあるが家庭がない。まさに崩壊家庭であります。その崩壊家庭が学校の荒廃につながっているのです。そのことは何を意味するか。真の愛に結ばれた父母がいないということであります。
 かつて生徒たちに何が欲しいかと聞いたことがありますが、彼らは「キャノンのカメラが欲しい」とか「七半のオートバイが欲しい」とかそれぞれ書きました。一人だけ「僕は何もいりません」と書いているのがありました。「僕が欲しいのはそんなものではなくてお父さんとお母さんの笑い声です」と。その家庭は夫婦がいつも喧嘩していました。お父さんが酔って帰って来ると、お母さんを殴ったり、髪をもって引きずり回したりしていました。ところがたまに機嫌のいいときがあって、学校から帰ってきたときにお父さんとお母さんの笑い声が聞こえてくることがあると、ほっとするというのです。
 また別なアンケートを採ってみたところ、「家族みんなが集まって、せめて一日に一回は食事をしたい」というのがありました。今どれほどの家庭が一家そろって夕餉(ゆうげ)の食卓を囲んでいるでしょうか。そうしたことがなくて何の家庭でありましょう。

夫婦の愛が全ての出発点

 今の多くの子供たちは、これらの事実に象徴されるょうに、本当の愛に飢えているのであります。現代の若者たちは食物に飽きながら、愛に飢えているのです。「愛と承認の要求が満たされるとき、すべての子供たちの命は甦り、心の扉が開かれる」のであります。
 愛と敬とによって結ばれた男性と女性が一つになり、手を取り合って人生に向かって出発していく。それこそが人生の幸福であり、社会の繁栄につながるのであります。ここで本当の生き方とは何かと考え、愛の本質とはそういうところにあると考える皆さんがいる限り、まだ日本は滅びないだろうと思って大変にうれしく思います。最後に愛の本質を歌った歌を朗詠して皆さんに送ります。これは歴史上の人物で、頼朝にとらえられた義経の妻、静御前が頼朝の前で死を覚悟して歌ったものですが、これを真実の愛を求めて歩まんとする皆さんの前途を祝福することばといたします。

しずやしず  しずのおだまき  くり返し 昔を今に  なすよしもがな

(糸車がぐるぐると回るように、もう一度昔が返ってくれはいいのだけれども)

吉野山  蜂の白雪  ふみ分けて 入りにし人の  跡ぞ恋しき

(雪深い吉野山で別れた夫、義経が恋しい)

回波かえさず  阿哥の心 南山の雪  とこしなえに深し

(海の波は寄せてはかえすけれども、兄、頼朝の兄弟愛の心は返ってこなかった。吉野山の雪がいつまでも消えないように、義経と別れた悲しみは永遠に忘れられないだろう)