かーつ |
〈臨済録) 【解説】 喝とは声で叫ぶことです。禅門でいい始めたのは唐代以後で、馬祖道一禅師が百丈懐海(ひやくじようえかい)禅師に放ったのが最初といわれています。 臨済は、修行者を指導する手段として、喝を四種類に分けて吐きました。 @ 有時一喝如金剛王宝剣(ある時の一喝は金剛王宝剣<こんこうおうほうけん>の如く) 金剛王宝剣は堅く、鋭利であり、どんなものでも一刀両断にすることができるように、ある時の一喝は、迷いや妄想を断ち切る一喝です。 A 有時一喝如踞地金毛獅子(ある時の一喝は据地金毛<こじきんもう>の獅子の如く) 百獣の王で金毛の獅子が、地面にうずくまり獲物にとびかかろうとした姿は、底知れぬ威力を秘めて周囲を威庄します。このように、ある時の一喝は、寄りつくスキもない威力をもった一喝です。 B 有時一喝如探竿影草(ある時の一喝は探竿影草<たんかんようぞう>の如し) 探竿とは、竿の先に鵜の羽根をつけたもので、水中を探って魚を浮草(影草)の下に集 めて捕る魚具です。つまり、相手の様子をうかがうことで、一喝したとき、本物か偽物かをみる喝です。 C 有時一喝不作一喝用(ある時の一喝は一喝の用<ゆう>を作<な>さず)にんぬんむさむくゆう これは任運無作の喝とか無功用の喝とかいわれるもので、自然のまま、何の造作も加えない一喝です。これこそ無喝の喝ともいうべき最上級の喝です。これらの喝こそ悟りの境地から吐かれた一句です。 【寸話】 唐代の禅僧たちは、文字やことばを離れて、自由な方法で弟子たちに仏法を伝えようとしました。 臨済和尚も、弟子に仏法を説くために生涯、文字や美辞麗句を並べたてることはなく、きわめて単純な喝の一句を用いただけでした。 のちに臨済系の弟子たちが、この喝を四種類に分けて臨済の四喝と称しました。 さまざまな迷いや悩みに打ちひしがれているときに、「コラッ」とどなられて、フッと迷いの雲が切れたという経験は誰にでもあるはずです。 特別にコラッとどなられなくても、オイッといって、ボンと肩をたたかれたとたんに、自覚することもありうることです。 すべてこれらは臨済の喝です。 要は、何らかの機会にこれまでの人生観を一大転換させるような機縁というものは、禅僧の修行に限らず、すべての人間にとっても必要なことではないかということです。 |