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無可無不可 (可も無く不可も無し)
〈論語・微子篇)
【解鋭】
 孔子が、古(いにしえ)の人で逸民<いつみん>(世を逃れて隠れ住む人)と称される七人(伯夷はくい・叔斉しゆくせい・虞仲ぐちゅう・夷逸いいつ・朱張しゆちよう・柳下恵りゆうかけい・少連しようれん)のことを評したのちに、自分のことをいったことばの中の一節です。
 なすべきこと、またはよいと決めこんだこともなく、なしてはならないこと、または悪いと決めこんだこともない、初めから何も決めてはいけない、といっています。
つまり、可も不可も超越し、それらにとらわれないという、分別・執着心を払拭した境地なのです。

【寸話】
 世の中というのは、よいことがあれば必ずその陰に悪いことがついて回ります。
よいことばかりであって、悪いことがひとつもない世界というのは、これは決してよい世界とはいえません。
 極楽世界といっても、楽、しあわせばかりがあって、不幸がちりほどもないという世界をもし極楽世界というのであれば、もはやこれは楽ともいえません。
 人間の世界というものは、楽があったら、その陰には必ず苦があり、苦があったら、その裏側に必ず楽があるというようにできているものです。
 ですから、非常に苦しんだあとには、ああ苦しんだといって、苦しみが解放されたとき、そのときが楽しいときなのです。
楽しみ方はいろいろありますが、楽しみはいつまでもつづくものではなく、長くつづかないうちにその楽しみが消えてしまいます。
その消えたときがまた苦しみのはじまりなのです。
 苦しみというものと楽しみというものは、別々にあるものではありません。
ですから、仏教では苦楽一体ということをやかましくいうのです。
 そういう苦楽一体の世界を、可もなく不可もなしと表現しているわけですが、ふつう日本語で可もなく不可もなしといったら、適当なところというような意味になりますが、仏教では決してそういうことをいっているのではありません。
苦楽がひとつであるということを自覚した世界を、可もなく不可もなしと孔子のことばを借りて述べているのです。