ご先祖調べを通して青い海と広い空の南の国は四国、伊豫の国は松山の方言を |
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皇祖皇宗の・・・ こうそ‐こうそう【皇祖皇宗】 天照大神に始まる天皇歴代の祖先。 |
あきず‐しま 秋津洲・秋津島・蜻蛉洲 大和国。また、本州。また広く、日本国の異称。そらみつ(空見つ)大和の国。 |
古事記によれば 「伊予の二名島は身一つにして面四つ有り。面ごとに名前あり。 伊予国を愛比売(えひめ)、讃岐国を飯依比古(いいよりひこ)、粟国を大宜都比売(おおげつひめ)、土佐国を建依別(たけよりわけ)」と記されている。 又、四国は「伊予の二名島」と云われていた。 つまり、伊予の愛比売(えひめ)と讃岐の飯依比古(いいよりひこ)、粟の大宜都比売(おおげつひめ)と土佐の建依別(たけよりわけ)をそれぞれ一対の男女神とみなし二名の島と云っていたらしい。
とにかく四国は呼んで字のごとく四つの国からなっていた。 また島全体を伊予と呼び、その中に伊予の国があった。ちょっとややこしいですな。 で昔から愛比売(えひめ)と呼ばれていた歴史の古い国、愛媛と云うことです。比古(ひこ)とは彦、比売(ひめ)とは姫と云うことらしい。
歴史に残る四国の豪族をあげると 鎌倉幕府以前では 伊予では越智(後の河野)、村上、橘、時代が下って西園寺、宇都宮、 讃岐では讃岐、綾、秦、西讃、忌部 阿波では田口、薬師寺、飯尾、三木、海部、岩松、秋本 土佐では香曽我部、山田、長曽我部、本山、吉良、大平、津野 などが挙げられる。 鎌倉幕府以降では 讃岐、阿波、土佐は細川、伊予は河野がそれぞれ支配するが、応仁の乱以降、阿波の三好、讃岐は十河、香西、香川、伊予は河野、宇都宮、西園寺、土佐は長曽我部が支配した。その後、豊臣が天下を取るまでの束の間ではあるが、長曽我部が四国を支配した。 豊臣秀吉の世となり土佐は長宗我部に安堵、阿波は蜂須賀家正、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景が松山に、南予は戸田勝隆が大津に夫々封じられた。 その後、讃岐は仙石秀久から尾藤知宣、生駒親正に変わる。伊予は小早川隆景から福島正則となり松山から今治に移る。その後、池田高祐、小川祐忠に変わる。南予は戸田勝隆から藤堂高虎に変わる。同じころ、伊予は加藤義明が松山に封じられる。 兎に角、目まぐるしくお国替えがあったようです。まだまだ関が原の合戦のあと味方したのが東軍か西軍かで変わります。 土佐は長宗我部が西軍に加勢したため山内一豊が、阿波はは蜂須賀家正の嫡子が東軍に加勢しそのまま安堵された。讃岐は生駒親正に安堵されたが後に山崎家冶が丸亀に、松平頼重が高松に封じられた。後に山崎家は断絶し京極高知が丸亀に入る。のち京極高通が多度津藩を創設し讃岐は三藩となる。 さてさて伊予は難しい。松山は加藤義明が東軍ゆえ、そのまま安堵、のち蒲生忠知となり忠知急死、お家断絶となる。松平定行が藩主となり廃藩まで続く。 今治は小川祐忠が西軍に加勢したため領地没収、藤堂高虎が入る。後に松平定房が城主となり廃藩まで続く。 南予の大洲は藤堂高虎から脇坂安治に変わる。後に加藤貞泰を迎え、次男加藤直泰が新谷藩を創立、幕末まで続く。。 一方、宇和島藩では藤堂高虎のあと富田知勝に変わる。のち伊達秀宗となり5男伊達宗純が吉田藩を創始し幕末に至る。 伊予には他に小藩ではあるが一柳直重が入部したあと松平頼純に変わる西条藩、一柳直頼の小松藩があるが、所謂お城はない。 で、四国には城郭のある所謂お城は八つありますが、その内半分は伊予の国です。今治、松山、大洲、宇和島の四つです。あとは高知城、徳島城、高松城、丸亀城です。 江戸時代図誌 21 南海道 筑摩書房 から引用 |