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私と山頭火の出会い   高橋 俊夫 H12・07・31 5号

 私が「山頭火」という名を初めて耳にしたのは、確か、一番町(松山)のイヨテツ会館の東側にあるスナック「鬼族院」であったと記憶している。そのお店はママさんや、ちーままの治子さんも山頭火ファンであったのみならず、お客として高橋正治氏がちょくちょく行うておられ、またおなじく客として当時の山口銀行松山支店長も単身赴任なのでよく行っておられ、私もいつの間にか山頭火について少しずつ知識を得るようになった。
 そして山口銀行松山支店長の肩入れで、下関で正治氏の個展が企画されたとき、たまたま私の大学時代の友人が下関にいたので、そこを訪れ、正治氏の個展と友人との再会という楽しいキッカケを作ってくれた。当時は正治氏は「鉢の子会」を主宰しておられたのであるが、一草庵に山頭火の句碑を作ることになり、市教育委員会の許可も下りて、ここに四基目の、そして一草庵最後の句碑が建つことになりそのとき私は会計担当という重責を担うこととなうた。このような次第で、大学で税務会計を専攻し、文学などおよそ縁のなかった自分が、周囲の影響を受けて、少しずつ山頭火の世界を知るようになった。また、出張やその他の所用で山頭火のふるさと防府の人達とも知り合うようになった。そしてこのことが防府の女流写真家山下女史と知り合うきっかけとなり、また、彼女達の強い要望が私が「まつやま山頭火の会」の結成に力をいれるきっかけになった。
 先述の一草庵の句碑建立に際して招集されたメンバーの中の藤岡照房氏、市川尭星氏、児島妙心尼や、写真の西岡さんなど多くの人々と「山頭火」という共通項をもった人達と交流することとなった。また、

おちついてしねさうな 草枯るる

という句碑の建立式で、わたしもつたない吟詠で参加させていただいたのも楽しい思い出となった。
 まつやま山頭火の会も結成二年の月日が経ち、三年目に入って会員数も県内外を含めて二百名を越えて来た。もうそろそろ私も後進に道を譲って、適当な方と交代すべきではないかと思っている昨今である。