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山頭火句五題話 高村 昌雄 H13・09・05 8号
その一 竈か窓か

 香川県長尾町の俳句寺と呼ばれる宗林守には、山頭火を始めとして多数の句碑が建てられでいるが、その一つに、 草が咲くかまど能てふてふ  という山頭火の句が刻まれた句碑がある。
 この句は、定本山頭火全集や山頭火大全には収録されていない。よく似た句に 草は咲くがままのてふてふ というのがある。 この句碑の句は、一行に書かれているので、区切りかたによっては (a)草が咲くか 窓のてふてふ (b)草が咲く 竈のてふてふ の二とおりに読める。(a)の方は、窓の外に蝶が来ているのを見て、草に花がさいたかと考えている情景が浮かんでくるが、他の方は、一般的には竈は家の中にあり、めったに蝶は家の中に入って来ないから、情景が浮かんで釆にくい。やはり(a)の方で考えるべきだろうと考えていたら、長尾町の砂丼斗志男氏から、この句は、山頑火が昭和14年10月20日、四国遍路の途中で琴平町夏井の村井三銭也宅を訪れたときに詠み、短冊に揮毫したもので、村井宅には当時外にも竈があって、そこへ蝶がとんで来たので、その情景を詠んだものといわれているとの貌明があった。外に竈があったのならば納得の出来る句である。どうやら(b)が適正であったようだ。

その二 夜と旅

 定本山頭火全集第一巻四九四n下段に 夜のからだを  ぽりぽり掻いてゐる という句がある。山頭火大全にも三五八nに同句がある。 この句は昭和14年11月5日山頭火が四国遍路の途次、室戸岬へ向かっているときに詠んだものであるが、山頭火自筆の四国遍路日記(高橋正治編「山頭火終焉の松山−四国遍路日記」)を見ると、 夜のからだを ではなく 旅のからだを となっている。最初に誤読されたものがそのまま受け継がれていたもののようである。

その三 殺か放か

 各地で好評を得ている毎日新聞社主催「生誕百二十年記念・風と雲と酒・山頭火展」の図鑑の88nに、大きな蝶々を殺したり真夜中 という短冊が出ている。 ところが、この句の読み下しには「ー 放したり真夜中」となっている。書評にも「殺したり」は「放したり」の誤読であろう。−「放したり」が正しい。とある。 しかし、山頭火のペン書きの文字を見れば、やはり「殺したり」と読むペきではなかろうか。二、三人の書に堪能な友人にも見てもらったが、やはり「殺したり」と読んでいる。この蝶はアゲハ蝶のようなものではなく、正確には大きな蛾ではなかったのだろうか。そうならば、不気味な蛾が飛び回っておれば、団扇か蝿叩きで叩き落として殺してしまったとLてもおかしくはない。

その四 雲の峰

 松山市の椿神社につくられている玉垣句碑の中に、高橋正治氏の奉献した 雲の峰ごくごくおっぱい おいしからう という、高橋氏の書になる山頭火の句がある。 この句は、定本山頭火全集にも、山頭火大全にもない。しかし ごくごくおっぱい おいしからう ならば収録されている。 実は、この句は「句日記」の昭和15年8月10日付けの最初に 満州の孫よ ごくごくおつぱい おいしかろう とある。次の行にも句が書かれていたが、その内の「雲の峰」だけが残されて他は消され、残した「雲の峰」を「ごくごく」の前につけるように線で指定してある。その結果 雲の峰ごくごくおっぱい  おいしからう という句になったわけで、全集も大全もこの「雲の峰」を見落としていたのである。 もくもくとわきあがった雲の峰から乳房を連想し、まだ見たことのない孫に思いをはせたのであろう。

その五 句碑へしたしふ

 定本山頭火全集第六巻二四二nの9月8日の記録に、九月八日 曇−晴 うつうつとして自己検討。 (中  略) 西山の宝塔寺拝登、碧梧桐師の墓に詣でる、朝日山陸軍墓地参拝。余戸の子規句碑を観る。 句碑へしたしふ 萩のさきそめてゐる とある。句は、このはど椿神社に建立された句碑の句であるが、句碑のほうは「句碑へしたし 」とすこし逢う。そこで、山頭火自筆の四国遍路日記・高橋正治編「山頭火終焉の松山ー四国遍路日記」を調べてみると、この句がない。また「碧梧桐師の墓に詣でる」が「碧師の墓をロす」となっている。最後の文字は私には読み切れない。とにかく、全集は山頭火の手書きのものを原本としていたと考えていたが、この逢いはどこからきたものか。宿題が一つ増えた感じである。
その一 竈か窓か その二 夜と旅 その三 殺か放か その四 雲の峰 その四 雲の峰