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虹の彼方へ 藤岡照房 H14・08・15 11号
○ 村の子がくれた 林檎ひとつ旅いそぐ

 この句の作者は、と聞かれて即答できるひとはまずいないでしょう。村々をさすらう旅人の感じがでていますが、残念ながら山頭火ではありません。
 種あかしをしましょう。作者の俳号を「風天」と呼べば、すぐおわかりのことと思いますが、そうです、あのフーテンの寅さんこと故渥美清さんです。
 寅さんが俳句を作る人?。
驚いてはいけないのです。山頭火になることになっていたのです。平成元年十一月三日放映の、NHKドラマ「何でこんなに淋しい風吹く」、早坂暁(はやさか あきら)さんの脚本で山頭火に扮することになっていたのです。
 紫綬褒章を受賞するなどスケジュールがとれなくなったりして、フランキー堺さんに変更されたそうですが、いや実は、肺の病が進行中で山頭火の「動」を表現することが出来ないと辞退したのであります。本当は山頭火が寅さんだったのですね、寅さんの山頭火。思ってみるのも心楽しいものがあります。実現していたら日本中が沸きに沸いたことでしょうが、本当に残念なことです。もちろん、フランキー堺さんの山頭火もよかったのですが。
 山頭火の旅にさすらう姿の実像と、寅さんの虚像をダブラせてみて下さい、なんと、お似合いのお二人ではないでしょうか。渥美清さんは、この役づくりのために山頭火の句や日記を調べたり、ゆかりの人や土地をたづねる取材旅行までしたそうです。
 さて、冒頭の句が詠まれたのは、平成三年十月八日のAERA句会で、「風天」にとっては初めての句会でした、そして、以後の句会にはほとんど皆勤だったそうです。風天の披講は朗々と、間が良く、駄句も名句に聞こえたと回想されています。

○ 時雨きて かっこうの声遠く 風天

平成四年十一月十日の詠ですが、約六十年前の昭和十一年山頭火は、こう詠んでいます。

○ ゆうべ啼きしきる  郭公を見た 山頭火

このほかの風天の句を二つ、三つ。

○ うつり香の 浴衣まるめてそのままに

○ いく春や 誰や名前呼ぶように

○ 蛍消え 髪の匂いのなかに居る

色っぽいですねえ、艶っぽいです。こんな句もあります。

○ 蒼き月 案山子に命やどすよう

○ 手袋ぬいで あかり暗くする

○ ゆく年 しかたない寝ていよう

風天の出た最後の句会は、平成六年六月六日。

○ お遍路が 一列に行く虹の中

 AERANo34では、「あたかも辞世の句のよう、最初の手術の半年前のことだった。」と結んでいます。寅さんは、その虹をわたっていったのでしょう。「あばよー」、と。
早坂暁(はやさか あきら 1929年8月11日ー)本名は富田祥資(トミタ・ヨシスケ)。小説家、脚本家。愛媛県松山市(旧北条市)生まれ。旧制松山高等学校卒業後、日本大学芸術学部演劇科卒。