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亡き母初子と山頭火さん 高橋正治 H19・03・10 23号
土を母とせずして一日の生命は保ち難い。九十九歳を以て母は昨年十月この世を去った。浄穢不二大地の愛が。
永遠という前には一瞬のごとくであるが、母と共に過ごしてきた年月を思う時、まこと慈愛に満ちた母であっただけに深い悲しみが残る。
山頭火が母を亡くして泣いた淋しかったであろう心がいま理解出来る。
味取観音の堂守の生活は母の霊を慰めるべく数珠を離さず、回向の毎日であったろうと思う。
昭和十四年十月一日、山頭火が高橋一洵の門を叩いて以来、律儀で親しみのある可愛い人でしたと母は言う。
 「そして、私とこはそんなに裕福でないから、たいした食事もしないけれど、山頭火さんは、あれこれ嫌じゃのは言わんで何でも喜んで食べられて、「ごっそうさんでございました」と言ってね。主人がおる時は一緒にご飯をいただいて、道後温泉に二人で出掛けたり、主人と仲がよかったみたいで、山頭火さんも主人も早稲田を出て、同じ学校だった関係で親しみがやっぱりちがうんでしょうなあ、でまあ、主人がおるとしっかり喜んどいでた、主人も、来たかな、ほしたらどうするかな、じゃの言うたりして、なんかしらん他人さんではないような物の言い方で、兄弟みたいな感じはありましたなあ。
山頭火さんがお金を借りに来たりしてはねえ、もうそれは五回や十回やないですか、はじめ一円五十銭を貸しておあげしたんですけどね、でも凡帳面で律儀なひとでなあ、何日かしてお金が入ったら必ず持っておいでるんです。きちんと、ほいでまた二、三日か四、五日するとまた借りにおいでるんです。
 山頭火さんがお亡くなりになられたその前の晩はねえ、護国神社のお祭りじゃったんですよ。そしてその夕方に家においでてご飯を食べて、それが最後のお食事会じゃった。翌日柿の会があって、句会をして解散し、主人も一応帰ってきたんですけど、あれは夜中の二時頃ですけど、ちょっと山頭火のことが気になるけん、いっぺん行ってこうわいと言うて出て行きました。山頭火さんは亡くなるのですが、その日一日主人は帰ってきませんでした。
 山頭火さんは、いい方だったと思いますね。いい方じゃから楽に往生なさったんじゃないかな、と。
 母手記の最後に、「よく寝て、よく食べて、よく働いた人生、悔いのない人でありたい。愛と思いやりの心をわすれないように、人には親切を。」