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山頭火没後六十年、放浪・漂泊の真相に迫る!

生かされた人生と句作  『山頭火 周到なる放浪』

河野啓一 (松山山頭火の会会員)

\1050(\1000)  B6版/176ページ
 山頭火と女性と句 河野啓一 H17・04・20 17号
○ 酒ぐるい女ぐるいの山頭火と言わないで!
 酒にも女にも弱かった山頭火であることは間違いない。酒に飲まれた延長線上で芸者とか女給、酌婦で気に入った女性と飲み続け山頭火は寝込んだ。「ぐでぐで」「ぼろぼろ」「ごろごろ」となって数日間反省にふける。
 一草庵と松山の山頭火を世話した一人村瀬智恵子さん(号・千枝女)は俗人山頭火と言ってこう話した。「俗人山頭火に帰った時は、一人淋しくいたたまれないのか、とぼとぼ街に出て番町亭等一流の料亭に、お酒をもとめたこともありました。もともと多額のお金を持っておられませんから、女中の付け馬を同伴して、山頭火は小さくなって「ちょっと過しすぎまして」と子供があやまるように、まっ直ぐに書き付けを出されたこともありました。」と。
○ ふだんの山頭火はどうであったのか。続けて智恵子さんの言
 「何かにつけ、私の狭宅を訪ねて下さいましたが、いつも礼儀正しく、門を開かれ、露地に下駄の音をコツコツひびかせながら来られると、おばは「山頭火さんだよ」と知らせてくれた・・・・」と。
○  ふだんの山頭火は・・・
 下駄の音がコツコツというのは「高いさしかえのきく歯の下駄」を何回でも歯さえ替たら良いとして愛用していたようだ。
 ご存知のことだが、村瀬夫妻はご主人の純一さんは汀火骨。伊予銀行勤務で夫人は学校の先生。
 この純一氏不在の時は女性だけの世帯で「入室を遠慮された」など「いつも礼儀正しく」「予定」した事は絶対に変えないという性格、情に負けない心の強い人だということを感じました。」とも言っています。(以上「伊予の歴史文化」第20号「松山の山頭火さん」村瀬智恵子・30〜59頁より) 「照れ屋」で「遠慮深い」人だったと言う女性もいます。
○ いろんな場面での女性
 「層雲」の同人としての女性、幻の中の女性、そして生活の中の女性と分類すべきでしょうか。便宜上@ABとします。
山頭火は生涯一万一千句余をつくりましたが、@の同人の女性を句にしたものはまことに少なく、私のさがしたのは次の一句で、句会の女性と思った方が自然です。

* 春の雪ふる女はまことに美しい   (1933)

 (昭和8年3月8日雪中句会)
○  同人の女性みな好感
松山での村瀬智恵子さん、一番香園寺の河村みゆきさん、みんな山頭火への熱烈な追悼文を書かれています。
 奈良女子大の二人の女性の下宿で一泊の兼行桂子さん。
 5枚も短冊を贈った福岡は香原出身の原田深雪さん。
 深雪さん自身が言っています。香原の山々が大好きだった山頭火が「私の田舎らしさがお気に召されて五枚も下さったのでしょうか・・・」と。「大耕」457号)
○  句の中の女性は
 愛情こもった女性観もあり時にはふしだらな女性へのきびしい句もあります。
 香春の原田さんは当時女学校の生徒さん。短冊を5枚贈る時はおそらく照れ気味だったことでしょう。
 これら同人で女性のみなさんを詠んだ句はみあたりません。

* 焼跡あるく女の背の子泣きやまぬ   (1917)

* 秋暑い乳房にぶらさがっている   (1930)

 これらの句をどう解釈するか、人それぞれに自由でしょうが、まちがいなく思いはふくらみます。

* すげない女は大きく孕んでいた   (l930)

 すげない女への小言のようでもありますが、秋暑い時の旅の途上での句とすると、出産間近かの唯でさえ苛立ちのそして暑い日、女性は大変ですね、すげなくもなるでしょう、といった同情的な作者の思いもくみとれます。
○ 咲野への想いと句
 女狂いの山頭火であったならば、旅と庵住と句作を続けた家庭の主らしからぬ男に、季節の衣類やお金をさいごまで届けることはなかったでしよう。
 一人息子の健と妻から送られてくるお金であったからこそ旅を続けられたし、山頭火本来のやさしさと感覚のするどさをもって、自然や周りの人を句にすることができたのだと思います。

* 風の街の朝鮮女の衣装うつくしい   (1930)

 さて愛する妻咲野などとは言っていませんが、年代順に抄出します。

* 吾妹子の肌なまめかし夏の蝶   (1911)

* 月今宵青き女よ梨剥かむ   (1913)

* 夢深き女に猫が背伸びせり   (1913)

* 雪ふる中をかへりきて妻へ手紙を書    く(1920)

* 君こいしゆうべのサイレン   (1933)

* いなぴかり別れて遠い人を おもふ   (1933)

* 海鳴りそぞろ別れて遠い人をおもふ   (1939)

 まだまだありますが、山頭火の酒や女性に関する句は案外少なく、例えば昭和10年1年間の総句数783句のうち酒13句、女11句しかありません。生活背景を考えて句を鑑賞していく必要があります。
○ 山頭火の問題句

* 水を渡って女買ひに行く   (1932)

 これは1932年2月18日付の木村緑平あての金の無心の中に書かれた句ですが、2月16〜22日の島原休養の背景が日記から分かります。果して女を買いに行ったのか、それとも緑平から飲代を送ってもらうための虚句か。芸者をあげて飲みつぶれ眼がさめてみると横に女が寝ていた、といったようなことは何度かあったのがわかりますが・・・。
補注
明治42年 1909 二十七歳 佐藤サキノと見合い結婚。 大正九年 1920 三十八歳 妻サキノと離婚。
http://www.jtw.zaq.ne.jp/kamifu-sen/siroimiti01.html
種田サキノ(咲野)
 山口県和田村の旧家佐藤家の長女として生まれる。美人の誉れ高く物静かな女性。女学校卒業した後山頭火の許に嫁いだ。一子健をもうけるが幸せは続かない。
倒産に始まる夫の酒癖や奇行、放浪などに離婚後も振り回されるが健を育てながら雅楽多を守り続けた。気骨のある明治の女性であった。