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熊電事件に新事実? 高村昌雄 H18・12・20 22号
山頭火が、大正13年12月、熊本市の公会堂の前で、開業間もない熊本市電の前に飛び出して電車の進行を妨げるという事件を起こし、これが出家のきっかけになったことはよく知られている。
 しかし、この事件はこれまで必ずしも正確に伝えられていなかった。事件の時期からことの顛末まで、資料によって異なっていた。
 殊に、事件の渦中から山頭火を連れ出し、「報恩寺」へ誘った人物については、長らく「熊本日日新聞の記者木庭(徳治)」とされていたが、平成13年頃から、「木庭氏は熊本日日新聞の記者ではなくて、教育者で壷渓塾の創立者であった.」という説を人吉市の山頭火を研究している坂本福治氏や、山頭火ふるさと会の田村悌夫氏が発表して以来修正定着してきたようである。
 この説の根拠は、「壷渓塾創立六十年史」の「木庭徳治先生小伝」のうちの「山頭火との遭遇事件」にある。この文は壷渓塾の関係者が「木庭徳治先生から聞いた話」として書いたものであるから、一応信用に足る証言と考えてもよかろう。
私もこのことについて「鉢の子第9号-平成13年12月25日付-」に「山頭火の?」として一文を書いた。しかし、教育者で壷渓塾の創立者木庭徳治説を全面的に納得していたわけではなかった。それはこの説が浮上してきた当時、報恩寺の住職錦井徳之師から、他にも「山頭火を事件現場から連れ出したのは私の親族だった」との申し出もあると聞いていたからである。
果せるかな、今になって新事実が発表された。
 山口県田布施町の久光良一氏(本会会員)から本年9月12日付の熊本日日新聞の記事のコピーが送られてきた。
 「泥酔し市電止めた山頭火救ったのは印鑑店主人・熊本市の木庭さんが私家版本 ”記者説“など覆す」と大きな見出しを付けた「井上智重」の署名入りの記事である。
 「 ・・・”山頭火を救っ た男“ は長い間、謎とされてきたが、辛島町にあった九州新聞社前の印鑑店「天地堂」の主人、木庭市蔵という人だったー同市城東町、元会社役員木庭實さん(七九)が私家版「菊池木庭城と木庭一族」の中で明らかにした。」と前文にある。しかし、本文中には、木庭實氏が大山澄太氏の著書「山頭火の道」に「子の名前を天威勲とつけたり、地利剣とつけたりしていた」という一文から木庭市蔵にたどりついたことが紹介されているが、肝心なことについて具体的なことはほとんど書かれていない。
 ただ、
 「酒を飲んで酔っぱらっ て公会堂前で電車を停めたことがあった。それを見ていた人が、前の九日社前にいた木庭という人 で、この人も大分変わっ た人で子供さんに天威動とか地利ケン(剣)とか いう名をつけていたような人だったが、その人が連れて千体仏(報恩寺) の望月義庵師のところに行った」と、昭和26年11月15日付の本紙(熊本日日新聞ー筆者註)記事の中で山頭火の妻サキノさんが語ったことが紹介されている。
 最後に
  「九日社とあるのは九 州新聞社の誤りだが、大山氏は座談会(昭和二十六年十一月、熊本市野田町の大慈禅寺で開かれた座談会で、大山氏も出席した-筆者註)でこのことを知り、「九日社前にいた木庭という人」を「九日にいた」と誤って理解したと思われる。
と「木庭」が「熊日の記者」とされた経緯が記されている。
 だがこの記事だけで、「木庭徳治」ではなく、「木庭市蔵」であったと即断するのはどうだろうか。
 木庭徳治氏は熊本県の文化功労者として賞を受けた教育者である。そのような人が側近に虚言をいうようなことがあるとも思えない。虎渓塾に学んだ複数の塾生の証言もあるようである。
 熊本県の友人から「菊池木庭城と木庭一族」の関係部分のコピーと、「熊日」の記事のコピーを送ってもらってみたが、これらからは「木庭市蔵」であったとの心証は得られなかった。ついでにいうと「熊日」の記事では「サキノさん」が「たきのさん」と誤記されていた。
 察するところ、サキノさん が「山頭火が木場というという人に連れ出された。」と聞いて、かねて噂に聞いていた 「木庭市蔵」と勘違いして、座談会でもそのように語ったのではないだろうか。
 それはともかくとして、山頭火を事件の渦中から引き出して、報恩寺へ連れて行ったのが不庭徳治だったのか、木庭市蔵だったのかということは、正確なことが判ればそれにこっしたことはないが、実はそれほど大事な問題ではない。
 この問題で大事なことの一つは、なぜ山頭火がこのような事件を引き起こしたかということと、もう 一つの問題は、この事件の起こった日時である。これまでの資料では、これもみんなまちまちで、具体的な日時を示したものはない。私も、かって「九州日日新聞(熊本日日新聞の前身)」のマイクロフィルムを丹念に閲覧したが、この事件は記事になっていなかった。また熊本市電も調べたが、記録は残っていなかった。報恩寺にも記録はなかった。
 しかし、この事件は、山頭火が報恩寺に入って出家得度する切っ掛けとなったいわゆるターニングポイントとなる重要な事件である。その日時がはっきりしないままでは済まないのではあるまいか。
 また、山頭火が出家得度した日もはっきりしていない。これも重要な宿題なのではあるまいか。