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山頭火の? 熊本市電 妨害事件のこと 高村昌雄 H13・04・25 7号
 山頭火が、大正13年12月、泥酔のあげく、熊本市公会堂の前にさしかかった熊本市電の前に仁王立ちになり、電車を急停車させるという事件を起こした。その直後ある人に引き立てられて坪井町にある「報恩寺」に連れていかれ、その住職望月義庵和尚に預けられる。山頭火はここで参禅修行し、翌14年、得度出家して「耕畝」と名乗り、植木町の当時無住だった瑞泉寺(味取観音)の堂守となったことは、よく知られている話である。
 ところが、この事件にはいろいろな謎がある。
 まず、この電車を急停車させた事件がいつのことであったのか特定されていない。資料にようてまねまちである。
大正13年のある日、大正13年末、大正13年12月、大正13年12月上旬、大正13年12月はじめのある夜などとまちまちである。大正13年であることは間違いないようだが、はっきり何月同日と特定できていない。
 熊本市電は大正13年8月1日に、熊本駅から浄行寺までと、水道町から分かれて水前寺までの二系統が開通していた。その開業からまだ間もない時期に起きた事件である。
 この事件の状況も資料によってまちまちで、泥酔した山頭火が、市役所前を発車した市電が熊本公会堂の前に差しかかった時、電車の前に突然飛び出して電車の前に仁王立ちになったとか、立ちはだかって線路に寝ころぶなどとなっている。いずれにしろこの場面が、あたかも現場にいて見聞したかのように書かれている。電車は急ブレーキをかけて線路に立ちはだかる山頭火の直前で停止、間一髪山頭火は無事だったが、乗客は車内で将棋倒しになり、降りてきた乗客に罵声をあびせられ(資料にようては袋叩きにされ)、警察官も駆けつけてきたようである。
 普通ならすぐに交番にでも連行されて事情聴取や取り調べなどが行われるのだが、そのようなこともなく、ある人物が機転をきかせて山頭火を現場から連れだすことができたのが不思議である。
 これだけの事件であるから当然新聞記事になっていてもよいと考え、熊本市の県立図書館で「九州日日新聞」のマイクロフィルムを調べてみたが、それらしい記事はなかった。この年の12月24日に九州学院生が轢死したのが最初の事故であったらしいが、この
事件と混同されたのでもなさそうである。
 しかし、この事件は、山頭火が「僧耕畝」となるきっかけとなった、山頭火にとっては非常に重要な意味をもつ出来事であるのだから、何とかしてこの日を確定したいものである。
 さてその次は、この事件現場から山頭火を連れだし(資料によっては「拉致」と表現している)、「報恩寺」へ誘った人物のことである。
 これも、「その酔っぱらいを引き立てて行く一人の男があった」と、正体不明の人物から、「木庭老人」、「木庭という熊本日日新聞記者」、「木庭徳治」、「木庭得治」(「徳」が「得」と字が違っている。)、「木庭は『九州日日新聞』の文芸部記者であった」などとある。「種田山頭火ーその境涯と魂の遍歴」には、「熊本日日新聞」は昭和十七年に「九州日日新聞」と「九州新聞」が合体されて社名変更したもので、当時は九州、九州日日新聞のいずれかの記者であったのだろう」と書いてある。
 このような記述のもとになったのは、「定本山頭火全集第三巻」の「解説(大山澄太記)」で、昭和26年11月12日に、熊本日日新聞主催の「山頭火を語る会」の席上で吉村光二郎氏の言として、「大正十三年に違いないが、月日ははっきり憶えていない。もう寒くなっていたが年末ではなかった。ある日、酔っぱらい山頂火が公会堂の前で大手をひろげて進行してくる電車の前に立ち塞って、電車を止めた。大騒ぎとなって警官もやって来た。その時、元熊本日日の記者をしていた木庭という老人が、警官に何か耳うちしていたが、山頭火をひっぱるようにして、同じ電車通りの東外坪井町報恩寺(俗称千体仏)へ連れて行った。そして、望月義庵に迷える山頭火を預けたのだ。」と紹介したところにあったのではあるまいか。
 このようなことから考え合わせて、山頭火を連れ去ったのはすくなくとも「木庭」という人物であったろう。
 しかし、この「木庭」なる人物が、「木庭徳治」と同一人物だったのかについては疑問が残る。
 「木庭徳治」は、当時51歳(明治6年10月15日生まれ)であったから、「木庭老人」とよばれるに相応しい年齢ではあったが、彼の経歴の中に新聞記者の時代はないようである。明治26年、熊本市立手取尋常小学校訓導に始まって東京市立富土見小学校訓導、山口県立農業学校助教諭、同県立徳基高等女学校教諭、鎮西中学校教諭、東京鉄道局教習所講師、仙台鉄道局教習所嘱託と教育畑一筋に勤め、昭和5年に、自らの号を冠した「壷渓塾」を創設(現在も専修学校熊本壷渓塾として大学予備校)している。この出頭火事件は、仙台鉄道局教習所嘱託の時代で、年末休暇で帰省していた時のことになる。なお、明治32年、骨膜炎で左腕を切断、当時は隻腕であった。また、鎮西中学時代から禅修行をしており、報恩寺の望月義庵とも面識があったようである。
 結局、「木庭」は「木庭徳治」で、新聞記者ではなかったという結論になる。
 隻腕で初老の彼が、泥酔した山頭火を報恩寺まで連れて行くことは大変なことだったろうが、現場から近い山頭火の住所「雅楽多」ではなく、1km余も離れた報恩寺を選んだのは、禅修行と望月義庵との縁故が頭にあったからなのかもしれない。
 田村悌夫氏は、「木庭」が「木庭徳治」であることを前提として、「山頭火文庫通信NO6」で「壷渓塾創立六十年史」の「木庭徳治先生小伝」中にある「山頭火との遭遇事件」を根拠に、新聞記者ではなかったと判断されている。
 しかし、「新聞記者」にこだわると、たまたま「木庭」という新聞記者がおり(熊本市には現在74件の木庭姓が電話帳にある。)、それがどこかで「木庭徳治」と混同されたとしても不思議ではない。私はまだ謎が解けていない。
 最後に、山頭火が出家得度して「耕畝」となった日が大正14年2月の何日だったか特定されていないことも謎であり、是非解明したい宿題の一つである。
(高村昌雄)