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ある頃の山頭火  (高村昌雄) H11・04・10 2号

 ”種田山頭火"といえばまず「自由律俳句の漂泊俳人」というイメージで固まっており、これまでにも大勢の人達の「山頭火研究書」が書かれているが、そのほとんどがそこにポイントがおかれているのではないだろうか。
 確かに「山頭火」といえば荻原井泉水に師事し「層雲」を舞台に自由律俳句の世界で活躍、層雲十哲に数えられている。
 ー方大正14年に出家、翌15年4月托鉢放浪の生活に入りって、昭和15年10月11日に松山のー草庵で59歳の生涯を終えるまで、.三八九居で約ー年(昭和5〜6年)、其中庵で6年2か月(昭和7〜13年)、風来居で約10カ月 (昭和13〜14年)、一草庵で約10カ月(昭和14〜15年)の定住生活はあるものの、「人生即遍路」とひたすら歩きつづけている。
 しかし、それだけが山頭火の人生ではなかったはずであり、文学活動も、最初から自由律俳句で始まりたわけではない。山頭火の人生の土台となる放浪以前の月日と、自由律俳句以前の文学活動にもう少し眼を向けておく必要はないのだろうか。
 山頭火は、明治29年14歳で私立周陽学舎に入学、この頃から俳句を作りはじめているようである。この頃どんな俳句を作っていたのか、まだその記録をみたことがない。明治32年、山口尋常中学4年に編入、回覧雑誌なども作っていたようである。
 明治44年5月、郷土文芸誌 「青年}に参加、山頭火のペンネームでツルゲネーフやモーパッサンなどの翻訳を発表しているが、一方で周防地方の俳句結社「弥生吟社」(後に椋鳥会)に参加している。現在この会の回覧俳誌「五句集」十三冊を防府市の山頭火ふるさと会が所蔵している。十三冊のうち、もうとも古いのは「五句集 第4号(明治4 4年8月)夏の蝶」である。この俳誌は和紙に筆(又はぺん)で書かれており、一冊しか作られていない。これを会員に回覧し、採点をするというものである。「夏の蝶」には山頭火は「田螺公=でんらこうまたはたにしこう)の俳号で

夏の蝶勤行の瞼やゝ重き

をはじめとする5句が発表されている。
 「五句集十一月号・夜長」には

酒に茶を夜長客席遠弾が

をはじめとする5句があり、以下各号に3〜5句が収められており、山頭火全集にも山頭火大全にも収録されていないものもかなりある。明治45年の「一月号・河豚」では3句のほか、「雑ろく」に

 突然ですが、少しく事情があって当分の間、俳句、単に俳句のみならずー切の文芸に-遠ざかりたいと思ひます。随って名残惜しくも、皆様と袖を分たねばなりません、今年は子の年ですから、仁木の鼡みたいに、また出直して来るつもりでハありますが、一応お別れします、色々御厄介になりました。皆様、御機嫌よう

毒ありて活く生命にや河豚汁

 一月十八日午前十時   田螺公謹んで申す

とある。

(高村昌雄)

この稿以下次号(編集部)