板根禎子(いたねていこ)は、秋に、すすめる人があって
鵜原憲一(うはらけんいち)と結婚した。
禎子は二十六歳であった。相手の鵜原は三十六歳だった。
年齢の組み合わせは適切だが、
世間的にみると、多少おそい感じがした。
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禎子が、新婚旅行の行先について、北陸を希望したのは、鵜原憲一の未知の一部分を
すぐに知りたいという欲望が動いた結果かもしれなかった。鵜原憲一は、北陸で働いている。
たしかにその土地を通過してみたい衝動があった。
暗鬱(あんうつ)な空と、荒い波があると聞かされている
北の海の想像の中には、その意識がひそんでいた。
それに対して、仲人の佐伯氏は、鵜原憲一の希望として、なるべく熱海か箱根、
遠くて関西あたりにしたい旨を伝えてきた。
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禎子は、なぜそれほど北陸を気嫌いするのであろうかと考えてみた。
しかし、それは納得できないこともない。自分が日ごろ職場としている地方に
新婚旅行でもないものだという気持ちであろう。鵜原は二年もそこにいるのだ。
月のうち二十日が金沢、十日が東京だった。
これでは、まるで、金沢に土着しているようなものだった。
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禎子は、夫の鵜原憲一の出張の帰りを、アパートで、毎日退屈しながら待った。
夫は、一週間したら帰ってくると言った。
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禎子は洋書の長たらしい単語がなじめなくて、本を閉じようとしたとき、
ちょうど、裏表紙と最後のページとの間に、カードのようなものが挟まれているのを発見した。
が、それはカードでなく、二枚の写真であった。
風景といっていいかどうか、二枚とも家が主題になっていた。
一枚の家は立派であり、一枚の家はそれにくらべると、見すぼらしい民家であった。
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「あの、主人の出張はまだ長いのでございますか?」禎子の質問は探りになっていた。
あるいは、相手の言葉を早く引きだしたい焦りであった。
「それが…」課長は、しょぼしょぼした目をした。すわった膝が少し動いた。
「鵜原くんは、このお便りにあるとおり、十一日の晩に金沢を発っているはずなんです」
禎子は息をつめ、言葉が出なかった。
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課長は、ちょっと声をとぎらせながら言った。
「実は、今晩、誰かを金沢の方へやってみようと思うんです。そこで、もし、ご希望でしたら、
奥さんもごいっしょに行かれませんか。夜行に乗れば、朝、着くのですが」
社から人を派遣するというのは、どういうことなのか、禎子は何か切迫したものを感じた。
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知らぬ土地 実際そうだった。
ここには夫の足跡はあるが、空漠として、接着感がなかった。
新婚旅行の旅に出て、途上で望見した北方の空の下への憧憬(どうけい)は
虚妄(きょもう)でしかなかった。
鵜原憲一と結婚したことまで現実でなく、錯覚であったような気がした。
すると禎子は、夫の失踪(しっそう)が、自分という新しい妻を得てから
始まったのではないか、とふと思った。 (松本清張 小説「ゼロの焦点」より)