ギターの音を求めて

ギターの音との出会い


僕がギター音の魅力にとり憑かれてフォークギターから
クラッシックギターに切り替えたのは高校生の頃でした。
あのスチール弦にはない甘くビブラードを
かけた高音弦の音はすごく魅力のあるもののように感じた。
しかし同時にフォ-クギターと比べて音の伸び(サスティーン)
が足りない事に不満を感じ、フォークギターの弦を張ってみたり、
ナイロン弦との中間の弦がないものだろうか等と思ったりしていた。
この頃ギターでできる数数え切れないほどの表現の奥深さや
可能性もなんとなく感じ始めていた。

憧れのイエペス

イエペスの演奏を聴いたのは大学時代だった。
後に生演奏にも触れることができたけれど初めはレコードを
聞いて作られた音ではあったが初めて聴く魅力的なプロの音だった。
そしてその分厚い音に凄いショックを受けたことを覚えている。
やたら硬いブリッジよりの音を真似て出していた時期があった。

河野ギター


更に当時日本のトップギタリストだった渡辺範彦氏や菊池真知子女氏の
甘いふくよかなそしてダイナミックな音に魅了されて
太い音がどうしたら出せるのか、そのことばかり考えていた。
この頃両氏が弾いていたのが今は亡き河野賢氏のギターで
当時の日本ではみんなこの楽器が憧れだったし、
買った人も随分いたのではないかと思う。
僕もご多分に漏れず10号、50号と学生時代に購入している。
河野ギターの特徴はあの甘い日本的な潤いのある音。
そしてあの渡辺氏の素晴らしいタッチで奏でられたギターの音は
今でもこの耳に焼き付いている。
しかしこの河野の素晴らしい音は渡辺氏の強靭な
独特のタッチによるところが多いのではないか?
長い爪と深いタッチで弦を押し込むように弾くにはかなりの
パワーがいる。しかも音割れ寸前のところで力をぬくと
ふくよかな音が会場いっぱいに広がり、
暖かい音楽空間ができあがる。
しかし僕のような非力な人間が強く弾くと腰抜けの
遠達性のない弱い音になってしまうことが最近分かった。
個性ということを考えるなら河野はやはり銘器だ。
しかもどのポジションでもバランスよくあの河野トーンを提供してくれる。
そして聴く側にとっても実に快い空間を提供してくれる。

10弦ギター

イエペスの影響でとうとう買ってしまった10弦ギター。
高知の田村満氏の工房まで買いに出かけた
あこがれの10弦。10弦ギター考案のイエペスには
2つの大きな理由があった。
一つは低音部の音域の拡大にともなうダイナニズム。
もう一つは倍音の均一な響きを得る為。
このエコーの広がりは自宅にしてリバーブ効果の
幻想的な空間を作ることができる。
しかしこの倍音の豊かさが僕にとって後に致命的な
音の探求に誤りを生じさせたと思っている。
エコーのかかった倍音豊かな音の世界は誰しも気持ちよくない筈はない。
しかしこの倍音そのものには遠達性を持ちえてないので
ステージ上では本人が思っているほど会場には届いていない。
さらにハーモニー上、邪魔な要素も含んでいるので音楽そのものに決して
良い結果はもたらさない。このことが分かってきたのは
ギターそのものを良く理解でき始めた最近になってからの事だ。

セゴビアの言葉

「ギターの音はこれだとやっと分かった時、私は60才だった」
とは20世紀最大のギタリスト、セゴビアの言葉です。
もしそうだとすれば僕のような未熟者が分かるのはもっと先なのかもしれない。
さらに雑誌現代ギターの中でセゴビアは推奨するギターとして
まず音色が優れてること、それも明るい音でないといけないと・・。
次にバランス、最後に音量を求めている。
このことは楽器に熟知されてるギタルラ社の青柳氏も同様なこと
に言及している。何故明るい音でないといけないのか?
今の時点で思うことはギターの音域を念頭に置いてみると分かりやすい。
つまりこの音域でたとえばピアノでギター曲を演奏するならば
低音部は響きが濁って耐え難いほど聞き辛いだろう。
したがって明るい音は和声的にも必然性がある。
そしてギターのこの限られた音量と音域の中で
あたかも一つのオーケストラとして響くには
1弦から6弦までの絶妙なバランスが必要だろう。
そして音量、この音の大きさとは我々ギタリストが
最も気をつけなければならない点である事に
最近僕は気がつき始めた。

二つの方向性

僕は二つのタッチそして演奏フォームを使い分けている。
自称セゴビア風タッチとバルエコ風タッチ。
タレガやセゴビアのあの右手首をやや傾けた所謂2,30年前に
多くの人が弾いていた演奏フォーム
は今はほとんど見られなくなった。
福田進一氏を初め、バルエコ、ラッセル等ほとんど手首を曲げない
45度の角度から弾かれる丸く太いピアノ的な音。
この現代のギターの音は僕はナイロン弦に変わった所から来ている
要素がかなり強いと思っている。
もちろん演奏されるレパートリーの多様化と
技術水準の高度化も多分に影響されてはいるが・・・。
この演奏スタイルはもし昔のガット弦を使用したならば
状況は全く変わってしまうような気がする。
化学弦によって得られるものそして失ったもの。
その失ったものの最も大きなものとして音色があると思う。
そして最近僕は弾いても弾いても何か満足できない違和感の原因が
これではないかと考えてしまう。
ギターが他の楽器よりも表現できる物とはいったいなんだろう?


ギターの音について考えるようになったのは
良いギターを探し始めた頃だったろうか?
そしてその時だれしもブチあたるのが遠達性という言葉。
倍音豊かな音は届かない。芯のある音のみが遠達性を有すると・・・。
この摩訶不思議な音の世界を考えると実に面白いと思った。
そもそも音とは一体何だろう?
そこで僕は哲学論を展開してみた。
まず音を聞くとき私達が五感を使って見たり触ったり
するのと同じ様にそこに何があるのかということの認識だと言うこと。
ではギターだと言うことが明白ならばギターとはそれが
何でできているのかというと木材から出来ている。
だから木の音がして来なければその本体の音ではないのではないか?
芯とはその素材そのものの音ではないか?
更に遠くで聞こえるということはどういうことなのか?
そこで僕はこう考えた。
音も遠くへ飛ばす為には物体と同じように鋭くとがった音でないと
いけないのではないか?鋭く硬い木の音・・・。
そうするとだいたいイメージが固まってきたような気がする。

弾く(はじく)

ピアノの音はハンマーで鋼鉄線をたたいた音。
バイオリンの音は弦をこすった音。
ではギターの音は?
原理的に近いのがチェンバロだが僕は若干違うと思う。
ギターの音は引っ掛かったものが外れたような音、
音を弓で射たような感じだと思っている。この弾かれるエネルギーが
音量そのものはなくても非常に瞬発力の強い音ではないだろうか?
この弾かれてから減衰していくまでの音量曲線が
どの楽器よりも美しいのではないか?
これが余韻ということだし良いギターはこの美しい
「韻」を持っているのだと思う。
これがトーレスの開発した力木配置の秘密だと僕は思っている。
つまりあの力木配置は音がいかに美しく減衰し、
表面板を振動させるかということが最も大事なポイントになっているのでは
ないだろうか。

雑音

倍音と一言で片付けてしまうがこの倍音の世界こそ実は
音色やハーモニーを形作っていく最も大事な部分だと思う。
特に周波数の高い高次比数倍音は音色を決定する要素だと思う。
そして倍音と同様もしくはそれ以上に大事なのが
雑音ということに気がつき始めた。
つまり雑音も決して無駄なものではなく、
たとえばフラメンコギターなどは弦を強く弾く所から発生する衝撃音も
大事な音色の一部分だろう。
爪の音や弦の素材もこの雑音と深い関係があると思う。
以前僕はこの雑音を極力廃止し純粋な透明感の
ある音のみを追求してきた。ところが数年前古いSP盤
それこそ半世紀も前のガット弦の時代演奏された、
セゴビアを初めとして巨匠のCDを買うチャンスに恵まれ、
聴くことが出来た。そこで驚いたのが雑音の多さ、
あの弦を擦るような音指頭弾きの
わずかに伸びた爪から弾かれるガットの雑音はこれこそ
ギター本来の音ではなかったのかと考えさせられてしまった。
しかし化学弦のこの時代にその音を求めるのは間違いなのだろうか?

音の参考サイト→http://park2.wakwak.com/~penny-arcade/gut_string/thouvenel/thou.htm