42ND STREET(フォーティーセカンド・ストリート)No.1


古びた木製のテレビ画面の映像が今まさに消えようとしていた。
若い女と男が一面に広 がった黒い液体とともに一点に吸い込まれていく、女の言葉だけが真っ黒になった画面か ら聞こえる。
「あんたが、殺した・・・・」
その消えていく台詞の語尾は、若い女の声ではなかった。その声は、一瞬にして低くなり、 断末魔をむかえるような男の声になってブラックホールへ消えていった。
「門田葉子さん、書留です」
玄関の飾り棚に印鑑はあった。私は薄っぺらな白い封筒を郵便配達人と眼を合わせること なく受け取った。
ドアの隙間から青空が見えた。六月二十七日も梅雨とはいえない晴天が続いている。
私は「どうも」と郵便配達に言うと、さっとドアを閉めた。すでに手紙の差出人も封筒の 中身も分かっていた。
それを十日ほど前に私は偶然テレビで見た。
ブロードウェイ ミュージカル「42ND STREET(フォーティーセカンド・ストリー ト)」2004年、待望の東京上演!と画面一杯に現れた衝撃的な映像にショックをうけた。
真っ赤な角張った文字が私の身体をがんじがらめに縛っていくのを感じた。そして私は熱 病にかかったようチケットを買求めた。
それが今届いたのだ。
私はさっき消したばかりのテレビをつけた。そして、なにもかもが硬いダイニングの椅 子に腰をおろした。飲みかけのコーヒーは六人用のダイニングテーブルの片隅にあった。
その楕円形のテーブルの上には新聞やダイレクトメールが散らかっていた。でも、飲み かけのコーヒーのまわりは、藍染めのテーブルクロスが邪魔されるものもなくよく見えて いる。藍色とからし色の幾何学模様の中に縦が五センチ、横十二センチの長方形の紙が違 和感なく同化していた。
それは半分ほど、大きめなマグカップの下敷きになっている。
私は四角の尖がりがすっかり丸くなり、かなり色褪せたチケットをマグカップの下から取 りだした。
どこにしまったかも忘れかけていたこの懐かしいチケットを私は二日かけて捜しあてた。 まぎれもなく、あの熱病がそうさせたにちがいない。
一度目はなくして、二度目は捨てたはずのチケットが、そう簡単に見つかるはずがない のにたった二日捜しただけで出てきた。何年か前に捜した時は出てこなかったのに。 私はずいぶん長いあいだ記憶をたどる勇気がなかった。いや、そうじゃない私はあの二 年間を記憶から消そうとしていた。バカみたく長いあいだ。
多種多民がうごめく街にイルミネーションの銀色とも白色ともいえない光の線が闇を映 し出した。その闇の中で、私が彼に求めたものは愛だったはず・・・・・・・。

チケットのミシン目の微かな凸凹を触ってみた。そして黒く印刷されたアルファベット を手でなぞりながら私は小さな声を出して読んでみる。
「ROW K SEAT16、FRI MAY 20,1982 8:00PM」
二十二年という歳月が過ぎ去ってしまった今でもはっきりと思い出せる。あのニューヨ ークの光と影の日々を。
 ブロードウェイから始まりブロードウェイで終わる恋物語を話すのは簡単なことかもし れない。でも、その記憶の中に身を置くと、 どうしても開けられない扉がある。
 私はその扉を開けることなくこの文章を書き終えてしまうことにことだけはしたくない。 たとえ、私が罰を受けることになっても。
さぁ、どこから書き始めようか。
あのときと同じ雨の匂いがしてきた。外はいつのまにか、ねずみ色の雲が太陽を奥のほうに 追いやっていた。
一九八二年、五月二十日のブロードウェイは激しい雨が降ったり、止んだりして、ご機 嫌斜めの天気だった。それでも、いつもの週末と変らぬ賑わいをみせていた。広い通りは、 車が渋滞し、あちこちでイエローキャブが道路に横付けされ、車から降りたニューヨーカ ーや観光客がお目当ての劇場に小走りで入って行く。
肌の色や髪の色が違う世界中の人々がブロードウェイにあつまり、聞きなれない言語が飛 び交っている。彼らはぞろぞろと歩きながら「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」な ど、ロングラン劇場の人だかりとなっていく。
しかし、それだけでなく彼らはブロードウェイから歓楽街へと続く横道に入って行く。 盛り場の路地から独特な臭いにおいがしている。その臭いは、脂が腐ったような臭いにお いだ。風向きによっては、その界隈だけでなくメインストリートまで漂ってくる。そして、 ポルノ街がある四十三丁目へと彼らは入って行く。私には、恐ろしくてけっして立ち寄れ ない通りだ。
そんな危険地帯と隣りあったところに「42ND STREET」の劇場はあった。そして、「キ ャバレー」や「CATS」と続いている。
私はマンハッタンの冷たい雨にうたれながら、「42ND STREET」の大きな看板をぼ んやりと眺めていた。
ビルボードを取り巻くいくつものライトが虹色の水滴に乱反射して、華やかな衣装のア クターたちが今にも踊りだしそうに身体を突き出したスチールは皮肉にも燦然と輝いてい た。
一九八一年トニー賞のミュージカル部門で、「42ND STREET」は最優秀作品賞に選 ばれた。そして、二十世紀演劇史上最高の「演出と振付」と評判のブロードウェイのミュ ージカルとなった。
連日、満員御礼となっているこのミュージカルを私はどうしても見たかった。
それなのに私は劇場に入ることができずにいた。この日のために昨夜からカーラーで巻 いたセミロングの巻髪はすっかりカールが取れ、水分を含んで重たくなった髪が私の肩に 乗っかっていた。そして鋏で切り揃えた前髪やサイドに流れる髪は、顔の輪郭に沿って黒 いマジックで縁取りしたように頭から首にかけて濡れて黒光りした髪がピッタリと張り付 いていた。
それにサテンの黒地に小花模様の襟が大きく開いたワンピースに合わせて、大人っぽく 見えるようにひいた濃いアイラインは墨が滲むように流れおちた。
私の嫌いな下膨れの顔が浮き彫りになった。その顔はちょっと突き出た大きな丸い瞳だけ が目立つ。鏡を見なくとも、想像しただけで落ち込む。
あぁ、嫌だ。なんと言う顔だ!
私は落ち込むと、必ず唇が切れそうになるくらいまで、おもいきり下唇を噛む癖がある。 時には赤い血が流れることもあるくらい・・・・・。
あのときも私は唇をおもいきり噛んだ。そして両手でしっかりと抱えていたバックを開 けた。これで何回目になるだろうか?今度こそ、探してみせる!
バックの中を呆れるくらい丁寧に探してみた。やっぱり、入れたはずのチケットが見つか らない。いったいどこに行ったの?
ポケットにも手を入れてみたが、小さな髪留めが指先にあたるだけだ。
「バカ!バカ!42ND STREETが見られないじゃない」と言いながら、私は両手で顔を 抑えた。
そのとき、私はすべてが悲しかった。
そして悲しみの連鎖が津波のように広がっていくのを感じた。宝塚歌劇団に対して、ア メリカに対して、ダンスに対して、自分に対して、それらが、どんどん大きくなり、悲し みのエナジーが胸の中でパンパンに膨らんでいった。
私は見知らぬ人と肩が触れ、ヨロヨロとよろけてしまった。
それだけで、そんなちっぽけなことで、強く噛んでいた下唇が開放された。そして、私の 鎧となっていた部分が崩れて行くのが分かった。
雑踏の中で私は声をしゃくり上げて泣きだした。まるで自己主張の得意な白人女性のよ うに。
私はこの三ヶ月の鬱憤を吐き出した。それは笑えるほど、見事パフォーマンスだ。
「Why are you crying so hard? Don't cry. Good girl !(どうしたの、そんなに泣いて、もう 泣かないでお嬢さん)」
と、まわりのやさしい人たちが心配して声をかけてくれた。 ついさっきまで、目を合わせることもなく、無視されていた私に一人、また一人と次か ら次へと心配そうに、声をかけて集まってきた。
悲しくて泣いているのに、なぜか違う?
虚栄心のかたまりの私は、人前で泣くという屈辱的な行為に耐えられないはずなのに、 私はまったくそれとはかけ離れた快い興奮の中にいる。この快い興奮を優越と思えるのは なぜ?この図々しい神経こそが、私のスターになる原点なの?そう思えた。あの時はそう 思えた。だから私は女優のように、身体をくねらせながら心の底から泣き声をあげて演じ た。
すると、小降りだった雨が激しく降りだし集まった観客がすっと消えていった。
そして一瞬、ブロードウェイの騒音や激しい雨音がピタリと止んだ。
「もう、いいかげんにしろよ。こんなに濡れて、風邪ひくぞ!」
東北訛りが語尾に残る低い声が響いた。
私はびっくりして顔を上げると、若い男が私のすぐ横にいた。
「あなたには、関係ないでしょう。うぅ、うぅぅ、勝手に泣いているんだから!」と、ま るで泣き止まない子供がひくひく息を漏らすように、私は男に悪たれをついた。
「関係あるよ。日本人だろう。みっともないぜ!さぁ、歩くんだ!」と、彼は無理やり私 を歩かせようとした。
短めな髪、四角張った顔、はっきりとした眉毛と切れ長な眼、そして整った鼻筋と中厚 の唇、赤桃色がかったその唇が雨に濡れていた。顔立ちは美形と言えるくらい整っていた。 そして、身長も高く、白の綿シャツとジーパンのシンプルさに負けない凛々しさがあった。 頼りなさそうに見えた身体は濡れたシャツの下で筋肉が隆起していた。
その頑丈そうな腕が私の肩をつかむと、彼は本気で怒ったように言った。
「泣き止むんだ!」
傷ついた野獣のような切れ長の眼がぐさりと私の心をつき刺した。
「分かったわ。手を離して、ひとりで歩けるから!」
と私は彼の手を身体から振り払った。 ちょっと顔がよくてカッコいいからって、偉そうに私を叱る彼の態度が許せなかった。
「いくら同じ日本人だからって、なんなのよ!」
と小さな声で言いながら、男を睨みつけ た。
すると、彼は私の手を素早くつかまえて
「早く、逃げるんだ。警官が来るぞ!」
と言った。
まったく予期しない展開になった。なんで警官が来るのかも、なぜ、私が逃げなきゃいけ ないのかも、私には理解できなかった。ちょっと泣いただけなのに。
アメリカはマイノリティーが泣いただけで警官がやってくる国だ。
私はそのとき、この男とこの場から逃げ出す予感がした。
「こんなところで泣いたら、警察に捕まる!」
「そうね。こんなところで泣いていたら、捕まるわね。逃げなきゃ、ダメね」
警官には捕まりたくない。アメリカで捕まったら、それこそ大変なことになると咄嗟に考 えた。父や母に迷惑をかけることになる。絶対に捕まりたくない。
私は涙をふき、濡れた髪をかきあげた。そして、彼の手を強く握り返した。そして私たち はブロードウェイを雨に打たれながら駆け出した。