HITOMIKUYOU(人身御供10) 

 忠司は静岡支店の七階の屋上から飛び降りた。
即死にならなかったのは、奇跡的だった。
紺屋町の道路が工事中で、忠司が飛び降りた時に土砂を積んだ大型トラックが偶然そこに 停車したことが良かった。
忠司は荷台の土砂の上に落ち、ワンクッションおいて地面に叩き 落ちた。偶然が重なって、命拾いをした忠司だった。
それでも瀕死の状態で、臓器の中で もっとも重要な心臓だけ集中治療室のベッドで弱々しく動いていた。
睦子は病院に着くと、すぐに白衣とマスクをして集中治療室に入った。
そこには別人の ようになった忠司がいた。大きく腫れあがって青紫色に内出血している忠司の顔や腕、胸、 腹、そしてベッドの端に引っ張られたままの状態になった骨が折れて粉々になった両足が あった。
酸素マスクに無数の点滴、そして生命を支える機械が何台も置かれ、目をふさぎ たくなるほど痛々しい姿でベッドに仰向けに置かれていた。
睦子はあまりに惨い忠司の身体に泣き崩れた。
忠司のメチャクチャに破損した肉体にうろ たえている睦子に、担当医は忠司が少しでも安定したら、両足の切断手術をしたいと話し た。
睦子は担当医に手術を承認することを即答しなければならなかったが、震えが止まら ず、声にならなかった。
そして看護婦に付き添われて集中治療室を出ると、看護婦は承諾 書の書き方を説明して睦子に署名させた。睦子は署名しながら、忠司の命が助かるのなら 両足がなくなってもかまわないと思った。
その時の睦子には両足を失った忠司の現実の姿 など考える余裕すらなかった。それから睦子はふらふらしながら待合室に入った。
待合室には静岡支店の職員が数人黙って座っていた。睦子は丁重にお礼を言うと、すぐに そこを出て洗面所に行った。
睦子はトイレの濁った鏡に映る自分の顔を見た。
そして睦子の顔の後ろに何かを感じた。 その瞬間から、睦子は変り果てた忠司の肉体から離れた魂を探し求めた。
睦子は忠司の魂 が自分を探していると感じて、薄暗い病院の中を歩き回った。
「忠司が待っているわ」
睦子には忠司の魂が見えるような気がしていた。
睦子は必死で忠司を追いかけた。忠司も睦子の姿を見つけようと動き回っていた。
そして 忠司は走ってくる睦子が見えたので立ち止り、睦子を待った。忠司は睦子をしっかりと捕 まえた。すると睦子が、忠司に食ってかかった。
「どうして、自殺なんかしたのよ!」
「俺はお前たちのために死を選んだんだよ。卑怯で、臆病者の俺がお前たちを大地震から 守る為に死を選んだんだ!」
「そんなバカみたいなこと言わないでよ。あなたが死んだからって地震が起きないわけな いでしょう。いいかげんなこと言わないでよ。それにこんなこと、あなたらしくないわよ」
睦子は忠司の言い訳に呆れかえった。そして忠司の恩着せがましい言葉に嫌悪感を持った。
自殺して死んでしまう人はいいけど、残された者がどんなに惨めになるか分からないくせ にと睦子は忠司を攻め立てた。
「睦子、お前はそんなに俺が信じられないのか!」
「当たり前でしょう。そんな嘘、誰が信じるのよ。あなたみたいな利己主義の我侭な男がそ んなことするなんて!私たちの為に死ぬなんて言わないでよ。寒気がするわ!」
「俺は分かったんだよ。ずっと彷徨いながら、やっと大事なことが分かったんだよ。お前 たちが俺にとってどれほど大切なものかが・・・・」
忠司はどうしても睦子に信じて貰いたかった。すべてを捨てて、自らの命を代償にして家 族を守りたいと望んだことを、そして、ただ家族を大地震から守ろうとしたことを息子の 孝太にも浩樹にも分かってもらいたかった。
決して恐怖心から逃げ出したのではない。毎 日ように夢見る地震の恐怖から逃れようとして死を選んだ訳でも、保険金詐欺と部長職の 板ばさみに疲れて自殺しようとした訳ではない。
忠司がこの世の中でいちばん大切な家族 をほんとうに守りたかったからだ。
心から忠司はそう思い、そう信じた。だからこそ、自 分の死を家族に理解してもらいたかった。
「睦子、俺の目を見てくれ、俺がお前たちのために死を選んだことを信じられるだろう」
忠司は睦子の前で初めて涙を見せた。
人は恐怖と疲労のシャワーを浴び続けると、ある境界線を越えることになる。その時、人 は何を感じて、何を思うのだろうか?
睦子は忠司の話を素直に聞き入れようと思った。
「分かったわ。あなたを信じるわ」
「睦子、ありがとう」
忠司はほっとした顔をして、睦子の前から消えていった。
薄暗い病棟の中をしばらく睦子は歩いた。そして忠司のことを信じようと思った。いつ大 地震が起きても忠司が家族を守ってくれると・・・・。
忠司は翌朝、睦子が見守るなか静かに息をひきとった。一月十九日の朝、五時四十分だ った。そして忠司の両足は切断されることはなかった。
二日後、忠司の通夜が東京で行なわれた。
アメリカに行っていた孝太は通夜に間に合っ て帰ってきたが、家にまともに帰ってこない浩樹とは未だに連絡がとれずにいた。
それでも睦子はひとり気丈に振舞っていた。それは忠司の魂と話したことが支えとなっ ていた。自殺した忠司を睦子は誇りに思った。
通夜が終わり、忠司のお線香を絶やさないように睦子と孝太は葬儀場に残って、一夜を 明かした。睦子は孝太に忠司の最後の様子を話した。
そして、忠司の自殺の真意を孝太に話 した。孝太は睦子の話と聞きながら、ひたすら睦子を慰めた。そして孝太は棺の中の変り 果てた忠司の顔を見て何度も嗚咽を洩らした。
 翌日、葬儀は通夜に引き続いて忠司の会社の人たちが取り仕切ってくれた。
告別式が始まって、お経が唱えられ、お焼香が終わり、棺に花がたむけられ死者と最後の お別れになった。睦子は浩樹を待っていた。ひとめだけでも忠司に浩樹を会わせたかった。
睦子は無理を言って火葬場に行くのをしばらく待ってもらったが、いっこうに浩樹は現れ なかったので、しかたなく火葬場に行く事にした。