HITOMIKUYOU(人身御供9) 

それは林道から外れて深い森に迷い込んだような恐怖が睦子に襲いかかった。
歩けば歩 くほど生い茂る木々が光を遮り、湿った空気が身体に纏わり着き、シャープに尖った葉が 睦子の肌を傷つけた。
そして暗い闇に息を潜めている蛇や百足や生き血を求める虫たちが 生贄となった者に群がろうとしていた。
睦子は両手で目前の枝や蜘蛛の巣を払いのけなが ら必死で明るい光が差し込むに場所を探し求めた。
しかし、闇は睦子を放そうとしなかっ た。まるで睦子が自ら深い闇に入って行くように睦子の足は冷たく暗い森へと進み出した。
忠司が自殺を図ったことを睦子は、うざったく思えてムカムカしてきた。そして自殺を はかった忠司の愚かさに嫌悪感を抱いた。
「自殺未遂なんかじゃなくて、死ねばいいのよ!」
と睦子は怒鳴り声をあげた。
とにかく忠司のすべてが嫌で堪らなくなった。
そして睦子は忠司の妻という存在自体を否 定してしまいたかった。それは静岡に行きたくない思いが睦子から溢れ出ていたからだ。
それでも忠司の妻として睦子はソファーから立ち上がり、二階に駆け上がった。
そして、 寝室のドアを無造作に開けて部屋に入り、荒っぽくクローゼットの中から旅行バックを出 した。腹立たしい怒りだけが残った。
殺伐とした虚しさが広がっていく寝室で、睦子は般 若の顔になってバックに服を詰めた。仕度ができると、慌てて玄関を飛び出した。
そして 東京駅へと急いだ。
新幹線に乗ると月曜日のお昼前だというのに「ひかり」の自由席は空いていた。
睦子は 車両中ほどの窓際の席に座っている女性(ひと)がこちらにむかって手を振っているのに 気が付いた。
「片桐さん!ここよ」
と増田朋子が声をかけた。
睦子は朋子に気づくと震え出すほど嬉し くなり、彼女のもとに子供のように走り出した。
睦子は三日前に二人が働いている植物園 の月例になっている「フラワー・アレンジメント講習会」で受付係を三ヶ月ぶりに朋子と 一緒にしたところだった。
同じ職場でも、めったに会えない朋子とこの最低な状況で会え たことを睦子はありがたく思い神に感謝した。
「増田さん、お隣に座っていい?」
「もちろんよ!」
睦子はピーンと張り詰めていたものが急激に元に戻っていくのを感じた。
「片桐さん、さぁ、どうぞ座って、座って下さい。私ね。京都に母の看病に行くところだ から」
と朋子は睦子を温かく迎えた。
睦子は軽く会釈をして通路側の席に座った。
「増田さんも相変わらず、大変なのね。お母様の御様態は如何ですか?」
「えぇ、もう良くはならないけど、母が生きていてくれるから・・・・」
「お母様、増田さんが来てくれることとっても心待ちにしていらっしゃるのね」
「そうなのよ。私が行くと、母が涙を流して喜ぶのよ」
「やっぱり、あなたは偉いわよ。毎月必ず、京都に行かれているでしょう」
「片桐さん、でもね。来月、母の介護のために主人が会社を辞めてくれて、京都に引っ越 すことになったのよ」
「そうなの。ご主人さま、会社をお辞めになるの?」
「まだ、定年まで四年あるけど、私が両親の世話をしたがっているのを分かってくれてね。 京都で両親と暮らそうと言ってくれたのよ。ほんとうに嬉しかったわ」
「それは良かったわね」
睦子は世の中には、こんな夫婦もいるのかと羨ましく思った。
「ところで、片桐さんは、どちらまで行かれるの?」
「静岡の主人のところに行くところよ」
とだけで睦子は口を閉ざした。
それでも睦子は朋 子の隣に座っただけで、深い森からやっと抜け出したように思えた。
それは朋子の人柄と 屈託のない話にやわらかな日差しを感じたからだ。
そして、あれだけ嫌悪した忠司のこと が心配になってきた。
新幹線が静岡駅に着くと朋子と別れて、睦子は忠司がいる病院に急 いだ。睦子は忠司の良き妻として、病院に着いた。