遥かなるオレゴンコースト8![]() アレックスと別れて李紗は、ホテルに戻った。寛子と美紀はもう寝ていた。 李紗はデートの興奮がなかなか醒めなかった。 あれほど期待していたプロポーズがなかっ たにもかかわらず李紗の心は満たされていた。 言葉が気持ちを表す道具なら、見つめ合い 触れ合うことも愛を確認できる道具となりえた。 李紗は寛子にアレックスのことを話した かったが、疲れて熟睡している寝息が聞こえて、無理に起こすのをやめた。 そして李紗は シャワーを浴びて、そっとベッドに潜り込んだ。 眠らない街ニューヨークにつかのまの静寂さが戻った。 三人が眠るホテルを静けさが包 み込んだ。しかし、また街は動き出した。 パトカーのサイレンが鳴り、車のブレーキの音 や人の声が部屋の中まで聞こえてきた。寛子だけがそれに自然と反応した。 こんなに早く目が覚めてどうしようと寛子は戸惑いながらもベッドからそっと起き上が った。スタンドから漏れるキャメル色の灯りが中世を思わせるホテルの調度品に馴染んで 寛子を時空間へと誘った。 それはゆったりとして、明け方だというのに不思議なくらい幸 せな気分になった。 寛子は静かに歩いて、カーテンの隙間からそっと窓の外を覗いてみた。 部屋から見える マディソンアベニューは数台の車が気持ちよく走り抜けていた。 そのまま視線を上げて行 くと、朝焼けが雲間からオレンジ色の帯を伸ばしてニューヨーク湾を染めていた。 寛子は 遠い昔この光景をアメリカの西海岸で見たことを想い出した。 「あの時はエリオット湾から見た夕焼けだったわ」 と寛子は懐かしくなって思わず呟いた。 そして、長いこと封印していた想い出が甦ってきた。それは寛子の大切な宝物だ。 「お父さん、どうしてもアメリカ留学をしたいの。行っていいでしょう。お願い!」 と寛 子は半年ほど粘り強く言いつづけて、頑固な父をやっとのことで説得した。 そして一九七三年に寛子はワシントン州立大学のESL(英語学校)に短期留学をした。 それは寛子が大学二年生に夏のことだった。 寛子はホストファミリーの家からバスに乗っ て大学に通っていた。月曜から金曜まで朝の八時半のバスに乗って通学した。そのバス停 から火曜と木曜日、同じ八時半のバスに乗る男子学生がいた。 カナダから来た留学生のロバート・ミルフォードだった。彼は寛子より五歳年上の大学 院生でビジネスを専攻していた。 三十年前のアメリカでは高度成長が著しい日本に多くの 学生が関心を持っていた。 そして日本語ブームが巻き起こり、全米のどこの大学でもたく さんの学生が日本語を勉強していた。ロバートもその一人だった。 二人はいつのまにかバス停で言葉を交わすようになり、二ヶ月が過ぎる頃には大学の構 内を寄り添って歩くようになっていた。 「ロバート、あと一週間で日本に帰らなければならないわ」 と寛子は悲しい思いを話した。 「あと一週間で寛子は日本に帰ってしまうのですか?」 ロバートの片言の日本語が途切れた時、寛子の頬に涙がつたった。 そして、二人の淡い想いはお互いの胸を駆け巡るだけで、なにもふたりの恋が進展しない まま一週間が過ぎていった。 とうとう二人に別れの日が来た。寛子は空港でひたすらロバートが現れるのを待った。 この一週間、寛子はロバートに好きと言えない自分をずっと責めていた。 そして、この恋 心をロバートに分かってもらえる日が今日しか残っていないと思った。 「どうしてロバートは現れないの!」 と寛子は声に出したかった。 それは胸を鋭利なナイ フで刺されるような恋の苦しさが寛子に押し寄せてきたからだ。 こんなにもロバートが好 きなのに、寛子はどうすることもできない歯がゆさに涙がポロポロとこぼれ落ちた。 最終の搭乗案内のアナウンスが流れた。寛子はアナウンスを聞きながら、もう一度、出 発ロビーを見渡してロバートを探してみた。 シアトル・タコマ・国際空港の出発ロビーは 夏休みでいつも以上に混んでいた。それでも祈るようにロバートを探した。 搭乗時間が迫ってきた。何度も振り返りながら歩く寛子が諦めかかった時に、 「寛子!寛子!」 とロバートが寛子の名前を呼びながら、走ってきた。 寛子は立ち止り、ロ バートは寛子を見つけるなり、昨日までの自信のないあやふやな態度がいっぺんに吹き飛 んだ。 そして彼の秘めた感情をからだ全体で表した。ロバートは寛子をおもいきり抱きし め、そしてお互いの気持ちをぶつけるように二人は最初で最後のくちづけを交わした。 そのくちづけがあまりにドラマチックすぎて、寛子はずっと忘れる事ができずにいた。 二人はあまりに恋に臆病で、この恋は成就できないと思い込んでいた。 だからこそ、寛 子が日本に帰るぎりぎりまでお互いの気持ちを表に出せなかった。そしてロバートに対す る恋心が愛しくて永久の恋として今も寛子の心に生きていた。 どんな恋も終わりがやって来る。これほど純粋で劇的な終わりは二十歳の寛子には悲し すぎた。やっと告白できた時には二人に辛い別れが待っていた。 その恋はあまりに美しす ぎて寛子は想い出すたびに胸が締め付けられた。寛子の心にロバートの面影が広がり、そ して胸が一杯になった。しかし寛子は初恋の時空間から突然、現実に戻された。 「おはよう。お母さん、もう、起きていたの?」 と美紀が窓辺にいる寛子に声をかけた。 「あぁ、美紀ちゃん・・・・」 と寛子は少し混乱して答えた。 「お母さん、疲れた?」 「そんなことないわよ」 「それなら、いいけど。明日にはお母さんは日本に帰ってしまうし、私、ほんとうにひと りになるのね」 「そうね。でも大丈夫よ。美紀ちゃんなら、ちゃんとやれるわよ」 「正直、ひとりでやっていけるか心配だけど、もう開き直ってやるしかないもん!」 と美 紀は明るく笑い飛ばした。 そんな美紀の言葉に寛子は青春の輝きを感じた。そして、寛子 はカーテンを開けた。朝日がいっぺんに部屋を明るく照らした。 「うわぁ、眩しい、こんな朝早くからなんなの?」 「ごめんね。李紗ちゃん、ほんとうにごめんね。起こしてごめんね」 と寛子が頭を下げな がら言った。 「そう、丁寧に謝ってもらうと何だか怒れないじゃない。私もおきますか」 「あぁ、そうだ。お姉ちゃん、占いやってよ」 と美紀が言った。 「美紀、イーチン(易)でしょう。やってあげるよ。お母さんもしてあげようか」 「李紗ちゃん、そんなことできるの」 寛子は李紗の占いに驚きながらも、昨夜、言い争っ た娘たちがにこやかに過ごしていることに幸せを感じた。 「美紀も、お母さん、この占いは良く当たるのよ」 そう言うと、李紗はスーツケースからイーチンの本を取り出した。 |