HITOMIKUYOU(人身御供7) 

翌朝まだ日も昇らぬうちに忠司は小夜子の部屋をでた。肌を刺すような寒さが忠司の身体 を包んだ。コートの襟を立てて、速足で忠司はマンションに戻った。
小夜子の匂いをシャワーで洗い流した。そしてスーツも替えて、軽く朝食を取った。睦子 からの留守電をチェックして、いつもの時間にマンションから歩いて五分ほどの会社に着 いた。
 机に白井からのメモがあった。
片桐課長 権藤総業の件で話しがあります。白井 亨 
忠司はメモを破り捨てた。たとえ、白井が権藤を告訴すると言ってきても無視しようと忠 司は決めていた。法廷で争ったところで、勝ち目はないと忠司は今までの経験と感で判断 したからだ。忠司が権藤の件を有耶無耶にしたがっているのには、もうひとつ理由があっ た。忠司は山本組と関わりを持ちたくなかった。山本組と一線を交えるにはそれ相当の信 念がなければ命を落としかねないことを知っていたからだ。とは言え、忠司は白井が握っ た情報によっては戦わなければならないことも覚悟した。
 朝の会議が終わってから二人は屋上に上がった。
「片桐、部長にこのことを話して権藤総業の件を告訴しろ」
と白井は報告書を忠司に渡し た。
「白井、これはいったいなんの真似なんだ。お前は営業だろう。この事は既に終わった事 だ。いい加減にしろよ」
「片桐、読んでから決めても遅くないぞ」
「お前はあの時のことを忘れたのか?白井」
「忘れていないさ、お前と二人で山本組の東京事務所で殺されそうになったことは俺の人 生を変えたのさ」
この白井の言葉が忠司の胸をグサリと刺した。
「俺は変らないままだ。臆病者のレッテルを今でも背負っている。もう、二十年も・・・・」
と忠司は白井に本音を言ってみた。
「片桐、お前も変ったよ。俺だけじゃない」
二人はしばらく黙って、木枯らしの風の声を聞いた。忠司に聞こえた声を白井に確かめる ように
「読んでみるか。告訴するかどうかは、それからだ」
忠司はそう言うと、ドアのほうに歩 き始めた。そして一人で四階のオフィスに戻った。
忠司は机に溜まった書類に目を通してから、隣の会議室で白井から受け取った報告書を 読んだ。そこには自動車事故の主犯格として山本組の幹部の名前があった。そして忠司も 予想していなかったことがその次に書かれてあった。倉庫火災の放火犯は権藤が山本組に 依頼したこと、そしてその人物は同じ幹部だということが明記されていた。読み終わった と同時に忠司は一瞬グラッと身体がふらついた。そして天を仰いで、会議室に担当者とイ ンスペクターを呼んで再度調査するように話した。
その夜、忠司は二日続けて小夜子の部屋を訪れた。
小夜子と過ごすことで、なぜか疲れがとれた。ただこの部屋にいるだけで白井のことや仕 事のことを忘れる事ができた。いや、忠司は必死で忘れようとした。そんな忠司に小夜子 は甲斐甲斐しく尽くした。その日も小夜子は忠司の好きなビーフシチューを作った。
ワインを飲みながら、小夜子が唐突に忠司に話し掛けた。
「ねぇ、私、旅行したいわ。あなたと二人だけで」
「無理だよ」
「さびれた温泉とか?」
「行けないよ」
「なんでそんなに冷たいの」
「そんなに困らせないでくれよ。小夜子」
「つまらないわ。温泉に行きましょうよ。バレなければ良いんでしょう」
「だから、無理だって」
「ほんとうに頑固なんだから」
「許してくれよ。小夜子」
小夜子は少し膨れた顔で忠司の見つめた。すると忠司は小夜子のグラスにワインを注いで 自ら小夜子の口に運んだ。
「そんなに小夜子が行きたいなら、いつか行こう」
と忠司は小夜子の耳元で囁いた。
「ほんとうね。絶対よ」
と小夜子は忠司に抱きついた。そんな小夜子を忠司は煩わしいと 思いながら目を閉じた。 
夕食が終わると、忠司はごろっと横になった。そしてタバコを吹かしながら、真新しい カレンダーを見ていた。
「今年は1995年か?」
と呟いてみた。そんな忠司の独り言に小夜子は後片付けをしな がら弾んだ声で、
「そうよ。平成七年、今日は一月十六日よ」
「もう、十六日か、早いな」
「そうよ。年とともに時間が経つのも早いのよ」
「そうだな」
と言うと忠司は大きな溜息をついた。
立身出世に縛られた男性(おとこ)が大きな賭けにでることは勇気のいることだった。 いくら白井に攻め立てられても守らなければいけない自己保身を捨て去ることができない 忠司だった。
いままで忠司は一つ間違えば命取りにもなりかねない修羅場を何度も潜り抜けてきた。
今の忠司があるのは入社以来ずっと携わってきたサービスセンターで築き上げてきた廻り との信頼関係だった。良くも悪くもその時々の上司の関係に気を遣い仕事に隙をみせずや ってきた。この神戸支店であと一年、何も問題なく過ぎれば昇進できる。今までのように 俺は順調に行く。なにも怖がることはないと思いながらも、忠司の心は揺れていた。この 遣り切れない思いをその晩も、忠司は小夜子のしなやかな肉体にぶつけた。
一月十七日がきた。朝五時四十七分!唸り声を立てて大地震が神戸の街を襲った。

「あなた、あなたったら、大丈夫!」
睦子が忠司の叫び声にびっくりして、声をかけた。